2001年4月11日(水)
学術論文とそうではないものの二分法が、意味がないということ
「無罪モラトリアム2」
(9日よりより続く)
西川祐子氏の前提は、まず、学術論文という制度の中にある文章とそうではない文章があるということだ。本人は、大学に勤めてはいるものの、大学から給料はもらっているものの、学術論文ではない文章を書いていると自分を評価したいらしい。
学術論文の制度ということが全然分からないが、ここでもお気楽に印象で言っているに過ぎないとしか思えない。堅い文章のことをいうのだろうか? では、堅いというのはどういうこと? 学術論文の制度ということばは、内実がない。内実が無くてもわかると思うと言うことは、暗黙の了解があると思っているということだ。
これも非常に不思議である。そんなものは、どこにあるのだろうか?わけがわからないが、深く考えていないというのが、実際のところだろう。はやりすたりのレベルなのだ。
問題なのは、15年前の言説をバージョンアップもしないで、生きていける大学という職場の特異性である。これは「学問の制度」なのではないか?私が、日本の人文系の学問、特に哲学や思想のジャンルが悲惨なのは、自分の経済的なスタンスを、きちんと内省しないことだ。高等サラリーマンであるのに、放浪者であるかのように、発言したりすることがある。私は高等サラリーマンであることは、悪いことではないと思っている。しかし、その場合は、ボヘミアンな風来坊性はないにしろ、高等サラリーマンとしての職業的な良心に基づいて仕事をするべきだ。芸術家気取りはやめたほうがいい。
高等サラリーマンとしての職業倫理もない(=つまり、情報をバージョンアップしない)のと同時に、自己認識があやまっていて(=そうした学問制度によって給料をもらいながら、自覚していないこと)、社会認識も誤っているのであれば、西川祐子という人はどうしようもない無知性な人間と言うことになるだろう。
このような人に書かせてしまうと、『本とコンピュータ』の編集部の知性も疑われてしまうのではないだろうか。
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