2001年4月9日(月)
15年寝ていても罰せられない人
「無罪モラトリアム2」
(トップページより続く)
「学術論文の制度」ではなく、何があるのだろうか? 一般的な読者?
私はあえて言いたい。この本の読者は「きちんとした本に3600円払える特権階級という読者」だと。西川祐子氏は、一般的な読者が存在すると思っているのだろうか。おめでたいことである。この点で、読者というメディアの変遷を知らないということである。この方は、1980年代の半ばから、ずっと寝ていたのだろうか?
「学術論文」の世界を見てみよう。山本さんの研究が、「学術論文」の世界の中では、普通のものではない。変わりものと言っていい。なぜ特異なものなのか。その理由の一つは実証的な研究だからである。現在の研究状況は、カルチュラルスタディズを日本に輸入したものとか、ジェンダー研究にしろ、概念と枠組みを輸入して、料理したもの、さらに味付けとしてアンチアカデミズムを標榜するといったものである。実証的な研究は、はやらない。
ここで、捻れがある。ポストモダン風の研究が新しかったのは、20年近く前の既に昔のことで、ポストモダン風の方が主流なのだ。そして、事実を調べないことが多いために、理論の枠組みに依存しており、流行が変わるたびにそれが移り変わる。つまり、大半の学術論文の世界も、一般世界と同じようなはやりすたりのルールによって動いているということなのだ。
しかも、そのようなものは、日本文学研究の優位性、ブツがあるということから、外れてしまうために、文化研究としては二番煎じになってしまい、売れないのである。かといって、昔流の実証研究がいいというわけでもなく、これまでの視点で、作家の言説などをただ単に追ったものとは違うと言うことだ。この点で、日本の研究メディアに対して、2方向への迎撃を行いながら、論を組み立てているのが『文学者は作られた』なのだ。
さらに本書は、一般向けを追ったものでもない。狭い研究と消費者の読み方への両方に対して別の道を探るというニッチをねらったものである。今の時代に、何か意味があることを言おうとしたら、この2方面への批判を内在させながら、進めて行くしかないのではないだろうか。そういうことを、15年間寝ていた人には理解できないし、そういう人に紹介を書かせてしまった人々にも分からないだろう。これは啓蒙主義の敗退だろうか。
啓蒙主義は1980年後半以降について理解できず、図書館界は、1980年以降について理解できない。これは面白い構図ということができるだろう。
ここで、一般読者とか一般社会などということばをいうのは、おかしいことは分かっている。しかし、「学術論文という制度」などという、21世紀には言うのも恥ずかしい愚かなジャーゴンに対してどう態度を決めたらよいのだろうか。学術と非学術世界があるのだろうか?私は、啓蒙書を取り次ぎ制度に依存して、ばらまけるような老舗の出版社以外で、きちんとしたものを出そうとしたら、学術の共同体(私はこれは職能集団だと思っている)に半ば依拠しながら、もう少し広い「知的なコミュニティ」に訴えかけるしかないのではないかと思う。それ以外の戦略はあるのか?そんなことを考えたこともない人に、「学術論文という制度の文体を超える」などと言うことをいって欲しくないのである。
「学術論文という制度の文体を超える」などといって恥ずかしくないのか?本を出すという困難さに想像力が及ばないのは、そもそも「学問制度」の中にいるからではないのか?
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