2003年5月6日(火)
青年的思考から「おじさん」的思考へ
2002年5月に毎日新聞と全国学校図書館協議会が行った「第48回読書調査」によれば、「児童生徒の1か月の平均読書冊数は、小学生で7.5冊、中学生で2.5冊、高校生で1.5冊。また、1か月に1冊も本を読まなかった児童生徒は、小学生で9%、中学生で33%、高校生で56%となっている。中学生、高校生と、学年が進むにつれて、極端に読書量が減ってくる傾向がある」のである。
小学生が読んでいる本は、児童書や絵本だろう。そうだとするとそこから、大人の本に移り変わる時に1月に7冊以上読んでいた子どもたちが脱落するということになる。大人の本というのは、何だと言われると答えようがないが、小説や物語ではないのではないだろうか。根拠はと言われると困るが。
少しの飛躍があるかもしれないが子どもたちが脱落してしまう「本を読むという行為」はどういう行為なのだろうかと考えてみたい。本を読む行為は、まず、本を探し出し、探し出した本を手に入れ、それを読むという手順を経る。さらに、その本は、様々な情報源の中から、編集者が書き手を見つけだし、書き手が文章を書き、編集者が内容を確かめ、それが商品として世の中にでていくものである。売りものになるかは、時代の流れと関係している。編集者と著者は、時代の趨勢と自身の関心とのバランスを取りながら、まとまった文章・情報として世の中に送り出すものである。この行程は、作り手が情報を選んで作りだし、さらに読者が年間刊行される7万種類以上の本の中から選び出し、読むというものである。この読書にいたる過程の意味は、情報の編集と選択ということだろう。
ここで、突然であるが、内田樹の『「おじさん」的思考』から、学校教育についてふれた文章を引用する。最近の調査によると、小学校六年生の段階ですでに授業を聞くのを止めてしまうということにふれた後でこののように言う。
「ものを習う」というのは、「知っている人間」から「やり方」の説明を聞き、それを自分なりに受け容れ、与えられた課題に応用してみて、うまくいかないときはどこが違っていたかを指摘してもらう、という対話的、双方向的なコミュニケーションを行うという、ただそれだけのことである。しかし、このコミュニケーションの訓練を通じて、子どもたちは「説明を聞くときは黙って、注意深く耳を傾ける」「あとで思い出せるように(ノートなどの補助手段を使って)記憶する」「質問は正確にかつ簡潔に行う」「集中している人の邪魔をしない」などという基本的なマナーを自然と身につけていくのである。(中略)要するに彼らは「自分が知らないこと、自分に出来ないこと」をどうやって知ったり、できたりするようになるのかの「みちすじ」がわからないのである。これは一種の対話的で、知的なトレーニングだろう。高校生になって、本を読まないということは、そのトレーニングをしていないということだ。あるいはそのようなトレーニングを小・中学校の間にしていないので、情報を選択できないために、本が読めなくなっているということなのだろうか。
内田樹のいうことはもっともであるし、なぜ勉強をしないことが、問題なのかを、できるだけ学校的価値観を絶対化しないで説明したいい文章だといえるだろう。さすが、哲学者である。でも、私は、まだ足りないと思う。人から知恵を受けようと言う動機はどうやって作ったらいいのだろう?知恵を授けるはずの図書館が、実際には軽く見られている現状をどう打破したらいいのだろう?内田の発言は、きちんとした就職、きちんとした仕事を作ることといったもっとおじさん的な地点に向かう。内田は、新しいプロレタリアートになってしまうと警鐘を鳴らすが、私はさらにいいたい。逆にもっと積極的にいうなら、それは、知的な活動、トレーニングの前に、仕事やビジネスや職につくことを考える、あるいは感じることが必要なのだ。そのことが、そもそも失われている。仕事の内容がいやでも、通勤がいやでも、テレビを買うため、家を立てるためにがんばれた時代―今、50代後半から上の世代はそれでよかった―ではない時に、仕事に対するリアリティを持つことが、まずは最初になる。そのことのためのキーワードが<ビジネス支援>なのであり、起業というと強すぎると感じる向きもあるかもしれないが、業を起こすことということになるのである。ビジネス支援図書館の運動もそのためにやっているのである。そろそろ、ただしいことをいう青年的思考から、実際に何かを成し遂げる方向―それが「おじさん」的思考だ―に変わる時期だろう。
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