2002年12月13日(金)

「限界知識」をつくるためのビジネス支援図書館

今度、鶴見俊輔さんのお宅にお伺いする。この春に創刊するmediという雑誌で、「限界芸術」についてのインタビューを行うためである。聞き手は、佐藤健二さんで、私と若いメディア論の研究者、井上雅人さんと御手洗陽さんでお伺いする。

鶴見さんの「限界芸術論」を読んでいると、私自身の目指しているものが、どうもそこにあるような気がしてくる。「限界」ということばが、聞き慣れないので、難しいと思うかもしれないが、どっちでもなく、どっちとも関係している、まだ名前を付けにくいものととりあえず、考えてもらえばよいだろう。鶴見さんの言う限界政治、限界芸術、限界学問といったジャンルについての関心がまさにそれだよなと思わせるからだ。限界芸術とは、純粋芸術や大衆芸術とも違う、芸術のための芸術でもなく、たのしみのための芸術でもない、その両方を生み出すみなもとでありつつ、また、純粋な芸術とも大衆芸術とも違った領域のものである。

そうなのだ、私が目指しているものは。話は飛躍するようだが、ビジネス支援図書館というプロジェクトを遂行しているが、それもまさにそのことを目指している。知識のための知識ではなく、単にたのしむための知識でもない。たのしみと純粋型の学問の間、そして、その両方を生み出すもの。

社会の現場から生み出され、さらに消費する知識でもない。ビジネスと知識を結びつけるというのはまさにその線をねらっているのである。そのような中間がなければ、知識は現実ときりむすべないし、また、何かをうみだすこともできない。手作りで作り出していく現場の知恵のようなもの、あるいはそのような知識を生み出していく手法は、限界知識と呼ぶべきものである。

役に立つものでありながら、楽しい。そのようなものを作りたいと思ってきたからこそ、図書館という世の役に立ちそうもないものを、現実の必要とぶつけようと思った訳なのだ。

限界芸術という土壌がなければ、純粋芸術は、人々にとっての必要から離れてしまうし、大衆芸術は、人々の必要を高めていくことができない。芸術が、人間のくらしの中の大事なものを育てていくものであり、日常生活を違った目でとらえ直していくものであるとしたら、限界芸術というものがなければ、純粋芸術にしろ大衆芸術にしろ枯れていってしまう。純粋芸術は独りよがりになり、大衆芸術は楽しませるだけのものになってしまう。これは知識や学問も同様である。

私自身のビジネス支援図書館の目的は、知識のルネッサンスであり、情報のエコシステムの再構築である。生活に根ざした市民による政治は、限界政治であるし、市民生活の現場に根ざして学問と生活を連携させるのは限界学問だし、そういう意味では、私たちは「限界」というもの目指している。柳田国男の「郷土研究」、柳宗悦の「民芸」、これらはそれぞれ、研究運動と芸術運動の機関誌である。ビジネス支援図書館の活動は、知自体の再構築の運動でもあり、ひつじ書房は知の再構築のためのオルガン(機関誌、組織、身体)である。ひつじ書房のミッションは、知識のあり方自体と変えることなのかもしれない。

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