2002年1月11日(金)

息子は、父親を二度殺す

1日、私の実家の春日部に預けていた娘を連れて帰ってくる。年末に相手をしてやれないので、ここ数年、預けている。帰ってきて、地元の簸川神社に歩いて初詣にいく。娘の七五三をしたところ。破魔矢はあったが、残念ながら、熊手がなかった。商売繁盛と家内安全を祈る。

実家にいくと思うが、息子は、親に反発し、文学的に言うと「親殺し」(ギリシャ神話のオイディプス王の逸話による)をするのだと思った。父親は、公務員であり、商売から遠かった。サラリーマンの純粋型であったといえよう。私は、大学を卒業するとき、自分の手でものを作って、売って、生きていく仕事に就きたいと思った。それで、小さな出版社に入った。本を読んで、頭の中を回転させて、それは楽しいことだが、テキストの中で生きていくことが、精神をむしばむ麻薬だとうすうす感じていた。だから、自分が相手にどう受け入れられるのかということが、具体的にわかる「ものを売る」商売に就きたかったのだと思う。最終的には、自分で会社を興してしまうことになる。その点では、私は、両親とは別の道を歩んだワケだ。

この点では、「親殺し」は、必死の問題だ。親の人生を否定するところから、自分の人生を始めたからだ。面白いことに、父が小さい頃に無くなった私の祖父は、福島から出てきて、浅草の飾り職人になったという。祖父が、百姓を否定して、職人になり、父が職人を否定して、公務員になった。そして、また、私が、公務員を否定して、編集者という職人になり、経営者になった。もっとも、父の姉は、夫をシベリアで無くした後、自分で、不動産を持って、小さな財産を作ったという点では経営者であり、私にとっては身近な人なので、その影響もあるかも知れない。叔母は、ハイカラな人で、戦前のお茶の水のパン屋さんの職人と結婚した。彼は、戦前、パンを配達するためか、運転免許を持っていてクルマを運転していた。免許を持っていたために、戦車部隊に配属されて、シベリアに行かされてしまったのであるが。

なぜ、親殺しを考えるようになったのかというのは、自分で娘を育てているからだ。自分がどのようにしてできあがり、どのような欠点を持っていて、そして、子供を自分と両親の世代を見ながら、育てていく。両親は、1970年代に土地を郊外に買っている世代なので、バブルの崩壊の意味が分かっていないし、サラリーマン社会の崩壊も実感できていない。そんな親が、孫をかわいがっているだけでいいと思っている安楽さには反発を感じることもある。これも、一種の親を乗り越えていく過程なのだろうか。世代間のあつれきなのだろうか。そうだとすると私たちの世代が、新しい時代を改革して作っていく仕事は、大きな「親殺し」なのかもしれない。

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