2001年10月18日(木)
エディトロジー
東大でやっていた授業、「出版論」にRE:PROJECT (http://www.rerere.org/)を展開していたセキネさんをお呼びした。来ていただいて本当にうれしかった。彼がやっていることは、そのページを見ていただくとして、その出版論の授業で話してくれたこと、その後、日経ネットのネット会議の中の有志でやったエディターシップについての、ベルギービールの茶話会にセキネさんをお誘いして、彼が考えてくれたことなどが、以下に書かれているので、ご覧いただきたい。
http://plaza8.mbn.or.jp/~nakagami/
の探究ノート。
編集というものは不思議なものである。良く分からない。手元に別冊宝島の『編集の学校』という本があるが、編集とデザインということが(似ているところもある)、違うと言うことがどうもこの本の著者の西岡文彦さんには区別できていないようだ。これは西岡さん一人の罪ではなく、同じく別冊宝島の『新・メディアの作り方』でもわかっていないようだ。こっちは松岡裕典さんの編集。本を作ると言うこととレイアウト・デザインとは違うと発行人兼編集者である私は思う。メディアを作ること、すなわち発行するということであるならば、レイアウトデザインはその一部である。
素材を並べて、レイアウトして、写真入りで見栄えのいいもの(意図的な悪趣味であっても)を作ると言うことが、前面に出がちだがそれは本を作ること、編集の一部で、しかも、最後の局面である。しかし、エディタースクールの『標準 編集必携』にしろ、ダヴィッド社の『編集入門』にしろ、それは単なる割り付け術と印刷所への発注法に過ぎない。
日経の茶話会で、坪田さんが編集とは優先順位をつけることだとおっしゃっていた。出来てきた記事の中から、どれをどのように紙面に載せる優先順位を付けることだと言われたが、もちろん、正しいが、何を取材しようかと考えていることも編集であるし、どれとどれを組み合わせれば、面白いかを考えているのも編集である。そして、あるところからべつのところへ、何かのコンテンツを移して、評価を変えることも編集だろう。それぞれの書き手の伝えたいこと、持ち味があり、それを別の場所に植え替えること、他の人の別の価値の中に起き直すこと。あるものの価値をそれによって、高めることができれば、その目利きとしての自分をさらに評価することができる。
そこには、場合によっては交易という商売に近い感覚がある場合があるだろうし、場合によっては読んでしまったことによって共感を(場合によっては勝手に)抱いてしまい、その共感をさらに別の人とも共感したい、広げたいという気持ちがあるだろう。共感がなければ、はじまらないにちがいない。
また、テーマを探しているが、それを必ずしも自分自身では書いたりしない。テーマでかけそうな人をさがし、そそのかし、支援し、手助けし、作ってもらう。あるいは作らせる。さらには、作りたい人にであって、その人の気持ちがのりうつってしまって、手伝ってしまうこともある。踊らされているのか踊らせているのかわからない。
このようなことを考えると「編集とは何か」ということについて、いままで、さほど考えられてこなかったのだと愕然とする。さまざまな実務的な技術と編集というものの関係すら、考察はない。これは情報を作ると言うことがどういうことなのか、基本的に考えられてこなかったということとつながっているだろう。ナレッジナビゲーションという考えが、コンサルタント業界にはあるが、これは近いけれども違う。あるいはこれをもっと積極的に巻き込んだ考えにかえる必要があるのかも知れない。
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