2001年10月6日(土)
将来的な展望の試作プラス
もう大きくなった大人が、ひとりで生きていくことは、今の時代、気楽なことだといえるかもしれない。曲がりなりにも、職を得ていれば、餓死することもない。人に危害を加えずに、食べて、寝て、生きていけるだろう。両親や、育ててくれた学校の先生に感謝しよう。1960年代生まれは、高度経済成長に突入する前の情景をかすかに覚えている。オリンピック、万博と、日本は経済的に飛躍を遂げたその過程の中で、私は成長してきた。
この高度成長期に、日本は、農村人口と都市人口が逆転し、高校入学率が90パーセントをこえ、日本の道路は、至る所アスファルトで覆われた。地域は、高度成長期に、基盤を失い、商店街は、新しい事態に対応できずに、古びていく中から抜け出せずに、消えていきつつある。
40代はまあいい。問題は、これから、育っていく子供たちにとっては、どうなのだろう。公園に行っても、子供はいない。一人っ子に、両親と祖父母2組という6名に囲まれている。見守る家族の方が多い。幼稚園、保育園にしか、友達がいない。遊びに行く代わりに、習い事をする。学校のようなものが、社会をおおいつくし、職人の目や大人の目という世間は、存在しない「教育的空間」。このような社会にしたのは、私たちの両親の世代と(そのあいだの団塊の世代から)われわれである。学校と企業が、社会を覆っているような。
完成した「組織」社会。サラリーマン社会。このような完成した社会は、息苦しい。ほころびのある社会の方が生きやすい。率直な感想として、子供を育てるのにも、心配だ。自分は、もう育ってしまったから、よいとしても、何かを、逆さまにする必要があるのではないか?
食欲がリアルであるということの意味の逆転
太宰治に「人間失格」という小説があるが、最近、「エクササイズ言語学」の原稿に引用があって、それを読むまで忘れれていたのだが、空腹ということが、リアルな社会で、腹が減らない人間(=主人公)が、腹が減ったふりをするという小説だったのである。感情と欲望が幸福な一致をすることができない主人公が、欲望を演じ、人の評価に対して演じ続けていくそのことの違和感が主軸にある小説であったのだ。太宰が、「人間失格」を書いてから、70年近いわけだが、時代が太宰に追いついてしまったといえよう。食えることが、当然になった時代。空腹がリアルであった時代から、食えることが当然になった社会では、問題は、まったく逆になったといえよう。空腹になり得るかどうかは、能力の問題になってしまった。
最低限の生存が、せっぱ詰まっている時代に、狂気は、生きることはリアルではないという感性にやどった。今や、生きることがリアルではないことが、むしろ、ふつうの時代に、自らせっぱ詰まらせることの方に狂気が宿る。なかなか理解されないことなのかもしれない。
精神科医の崎尾英子さんの本の中に、拒食症になった子供のことがあった。ご飯はどんどん食べるのが、子供だと思って、食べさせる祖母。無理に食べるより、食べたいときに食べればいいと思っている母親。祖母は、ご飯を食べさせることは当然だと思っており、食べさせないのは教育をしていないことだと信じている。したがって、母親がきちんと教育しないから、食べないのだと思っている。食べなければ、祖母は母親を非難する。自分たちの時代の基準が正しいと思っているから、容赦ないわけだ。食卓は、本人の食欲とは関係なく、教育の戦場になってしまった。食べてみせると、祖母は機嫌がいい。機嫌をとるために、食べ続ける。祖母と母親がけんかをしないでもすむ。結果、子供は、自分は食べたいのか、食べたくないのかもわからなくなってしまう。
このようなことが、ふつうになってしまったわけだ。拒食症を伴った引きこもりというものは、自分の欲望を自力で探り当てるための必要な時間であるのかもしれない。引きこもって、自分に自分の欲望が見いだせない場合、出てこれなくなってしまう。太宰のように天才であれば、そのねじまがりを自分で見つけ、表現によって、その「悪」を中和することができる。
食欲が自分自身のものでない時代に、知りたいという欲望が存在できるのか
食欲自身が、自分のものでないとしたら、自分で自分の人生を生きることなどできやしないだろう。そんな中で、社会が活性化しないのは当然のことではないだろうか。創業しようとか、独立しようとか、そのようなことは生まれようがない。
食欲自体を、発見しなければならない時代なのだと言うことである。これは、なかなかたいへんな時代だ。生きることも、性欲も、何かを成し遂げようと言う気持ちも、食うという気持ちがなければ、起こりようがない。
食欲のない時代に、知識欲というものがあり得るだろうか? 気晴らし欲というのはあるだろう。食欲がなければ、問題にぶち当たると言うこともない。気晴らし欲から、繁殖欲としての性欲にたどり着くだろうか?子孫を作ってやれという欲望にたどり着かなければ、社会の問題をどうにかしてやれという欲望へもたどり着かないのではないだろうか。
この点では、『噂の真相』の中森氏の発言は、意味がないといえよう。佐野真一氏が、『誰が本を殺したか』で、「ダヴィンチ」を切り捨てたということで、怒っている。中森氏によれば、いい雑誌だそうだ。宮台氏が、社会学の紹介をしているから、大衆にいい入り口を提供していることを評価しないのかというのだが、残念ながら、ダヴィンチで、宮台を読んだ人が、社会学の本を読むと言うことはほとんどありえないだろう。きばらしと欲望のあいだの距離は大きいのである。これは、エリート主義でも何でもなく、専門の大学院生すら、海賊版ですませてしまうような世の中で、ダヴィンチの宮台の文章を読んだくらいでは、ふつうの人が、専門書を買うことはないだろうと言う単なるシビアな意見である。ただの情報と3000円以上の情報は違うというのは、エリート主義でも何でもなく、簡単な消費者動向の分析である。中森氏の発言は、基本的な間違いだ。
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