2001年7月17日(火)
「文化哲学」を変える必要性
『進化する図書館へ』というブックレットを刊行した。この内容の肝(キモ)は、菅谷明子さんの中央公論に掲載された「進化するニューヨーク公共図書館」であるが、私自身は「市民の図書館から市民活動の図書館へ」を執筆した。この文章は、もともとは、昨年の秋のシンポジウムの時に配布したわたしのレジュメがもとである。当初の批判は弱めたが、この文章の趣旨は、1970年代を支えた図書館運動への建設的な批判を狙っている。その時代の図書館運動は、ある意味で大きな成功をおさめたものの、大きな問題を抱えることになったと思うからだ。詳しくは、ぜひ、このブックレットを本屋さんで注文して買って読んでいただきたい。64ページで、値段も600円であり、手ごろな値段だから。
なぜ、図書館にこだわるかというと難しいが、消費者になってしまった読者への働きかけも必要であるが、一方では、もう少しまとまりがある公的組織自体が変わらなければ、全体がかわらないのではないか、と思う。
1980年代、大学の知に飽き足らない人々が、塾の講師になったり、塾を作ったり、あるいはルポライターになったりした。当時は、それまでであれば大学の中にいるしかなかった知性が、巷にあふれていた。だから、塾という職があったし、そんな大学から見れば外野に知的な読者もいて、本を買っていた。大学以外にも商業的に成り立つ読者層が存在していたわけである。『別冊宝島』などはそのマーケットを狙っていたし、それで成功し、書き手も何人も生まれていった。
言論自体の公共性を、市場が支えていたということかもしれない。でも、それも今はないという風に認識すべきなのではないだろうか。本という世界にも、ひとつの公共性があるということを、きちんと述べ立てた上で、組織的な支援が必要だろうと思う。ただ、個々人の購買力、批判力に今すぐ頼ることは現実的ではない。「読者を信じよう!」というのは、かっこいいかもしれないが、あまりに現実的ではない。1980年代型のひとは、大学というアカデミズムとは違った商売の世界があると思い込んでしまったのではないだろうか。「しゃらくせい!外があるさ」といった具合。だから、硬直した知(=大学)対柔軟な知(=売れる本)という非常に単純な2元論に開き直ることができた。では、売れないモノは硬直した知なのだろうか?たまたま、知的浪人が、世間にあふれている幸福な時代だったのではないか?
だから、私は両面作戦を取りたい。個々の読者を活性化させる「投げ銭」と組織的なパトロンシップであるような公共的な認識を高めること、その中には文化政策を変えさせること、図書館の役割を変えることも含まれている。この点で、著作権の処理システムだけつくっても、「文化哲学」がなければ、意味がないというのが、私の思いである。そのために何をすればいいのか。
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