2001年5月6日(日)

情報エディターというものが生きていけないだろうか

「無罪モラトリアム3」

メールリストで、分科会などもたくさんあるものから、どんどんメールがくる場合、主な活動がそこである人はいいが、副次的に参加している場合、コンテクストがどんどん見えなくなっていく。議論の道筋がわからないと参加のしようがない。ちゃんとしたことを発言しようとすれば、まえまえからの話の流れや、参加者のパーソナリティ、一言居士なのか、着実な人なのか、実際に実務をやれる人なのか、口先だけなのか、あるいは得意な分野での発言なのか、そうではないのか。

私は、せめて、発言のダイジェスト機能をつかって、副次的に参加している人には、毎日毎日、素(す)のメールがどんどん届くのではなくて、1週間なら1週間で見えるようにして欲しいと思うのだが、単純にダイジェストする(まとめてくれるだけでも良い)メールサーバーがないようだ。

あるいは誰かが、一週間分の発言内容をその人の視点で構わないので、どういう人からどのような発言があったということをまとめて投稿できるようなスタッフの仕組みを作ってほしいと思う。モデレーターというよりも情報の編集者というものに近い。そういう人手や労力をかけて、はじめていろいろな立場の人がスムーズに議論できるのではないだろうか。そういう役割は重要だと思うが、多くの人はそう思っていない様な気がするが、どうなんだろうか。

テキストがどんどん送られてくれば、送っていれば、議論がなりたつというのは、楽観的な考えだ。平等に送られれていれば、情報が平等に届くわけではなく、届けるためには、それなりの技能を持った人の手間が必要だと私は思う。

編集者というのは、そういう技能だと私は思っている。ところが、そのことを誰も評価していない。この点で、出版学会での小林龍雄さんの議論は、まとはずれのような気がしてならない。なんで、2001年のいまさらグーテンベルグなんだろうか?出版人が考えなければならないのは、そもそも著作権ではないのではないか。著作権は、書き手に任せておけばいい。編集者は、編集して、生きていくその技能は、近代の中でも、一度もその職能としても認められたことはないのである。

つまり、近代の出版の歴史の中で、解体しようにもそもそもなかったということは、どういうことなのだろう。編集者は、まずは自分たちの技能をどう評価するのかということをちゃんと考えるべきだろう。

それにしても、AXIS(最新号)の特集の中で、デザイナーの祖父江慎さんの発言は、冗談なのだろうか。

「言葉にルを付けると動詞になるんです。たまたまなんですけど」

たまたまではなくルやウは動詞の指標である。だから、五味太郎さんが、「さる・る・る・る」という本を出したわけだ。「たべる、わる、にる、ねる、かえる・・・」

日本語の文法の本を少し読めば、たまたまではないことは直ぐに分かるはずなのに、そんなことも勉強しないで、デザインとしての国語の教科書を作るということはどういうことなのか、手伝ったスタッフの中には、この程度のことがわかる編集者もいなかったんだろうか。教科書会社に依頼されたわけでもなく、勝手に自分で作ってしまうという点は最大限尊敬に値するにしろ。

勉強しなくても、モノは作れるという気持ちと本作りのプロである著名なデザイナーの周辺に無知な編集者しかあつまらないということ。

どういうことなんだろう? 本人に聞いてみるべきだろう。

日誌 2000年2・3・4月 日誌 2000年5月日誌 2000年6・7月日誌 2000年8月日誌 2000年9月〜11月

日誌の目次へ
ホームページに戻る


ご意見、ご感想をお寄せ下さい。

房主
isao@hituzi.co.jp