2001年3月14日(水)
公共性というものは、消費者に対するサービスなのだろうか
3月11日、京都の同志社で開かれた日本図書館研究会のパネルディスカッションにパネラーの一人として参加した。招いてくださった村岡さん、ありがとう。西村一夫さん、寒川登さん、事務局の方ありがとうございました。また、名指して質問を送ってしまった伊藤昭治さんにも感謝したい。いろいろな話がでたが、ここではひとつだけ。私は、図書館は、情報の消費ではなく、市民の活動を支援するようになってほしいと提案したが、フロワーから、それではエリートの図書館になってしまうのではないか、という質問がでた。論旨を明確にするために、あえてした質問であったかもしれない。とはいうものの、面白いテーマでもあるので、少し考えてみたい。
その時に私が答えたのは、今までの図書館が市民全体に奉仕してきたというが、それはサラリーマンとその家族が中心ではないのか、八百屋さんとかそういう人々については視野にはいっていないのではないか、ということ。次に、まず、何かをしようとしている人の後押しをすることを優先してもいいのではないか、ということを述べた。
シンポジウムが終わって、SSSJの高木さんに会った時に高木さんに話を聞いてきたが、その内容が関連していると思うので紹介しておきたい。高木さんの事務所のそばの廃校になった小学校を改造したビアホールでのはなし。アートセンターまでできているので、高木さんに、やっている活動の会議とか、もろもろにこのスペースは使えないんででしょうか、と私は当然使えると思って、便利ですねという気持ちでお聞きしたら、使えないのだという。この小学校は事務所の直ぐ裏手なのだが、高木さんに貸すといろいろな人に貸さないといけなくなり、高木さんの私的な(?)事業に貸すのは公平性が失われるからダメだと言われたということだった。高木さんは、視覚障害者のためのパソコン教室を開いたり、視覚障害者のためのキーボードマスターのソフトを開発したり、しているそういう社会起業家であるのであるのに。
「公平性というのは、結局、誰にも貸さないということで、使えなくしているんです」
「行政は融通がききません。結局、使えないから期待してもダメなんです。このことに気が付いたのは、神戸の震災の時です。事前にきちんとしらべて、ある避難所に800人の人が避難しているということが分かって、コロッケを800個あげて持っていったんです。でも、持っていって見ると1000人がいました。すると、行政の人は分けられないので800個はそのまま、もって帰ってくれというんです。最終的には、住民の人がでてきて、そのコロッケはもらう。自分たちで分けるから、と言ってくれたので渡しました。」
「行政の公平というのはそういうことなんです。」
この話から、図書館の話に戻ると、全員の人に行き渡らないサービスはできないということになる。助けたい人がいて、助かる人がいれば、そのことがプラスになる、ということはなかなか難しいのかも知れない。そこから、あぶれた人はどうなるのか、という批判をかわすのは、これまでの「公平」「公共」の論理からするとなかなか難しいのだろう。でも、それは機能しない公平さである。
このことは、けっこう重要な問題だろう。きちんと新しい公正とは何か、公共とは何かを示さないとならないのだろう。また、消費者を支援するのは、全ての人を対象とすることで、作り手を支援しようというとエリートを支援しているのではないか、となってしまう発想も面白い。ここには、消費者が全てであるという考えがある。とはいえ、根の深い問題なので、きちんと論理的にそうではないと説明できる論理が必要なのだと思う。
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