2001年1月8日(月) 成人の日 雪のち、晴れ?
多数決への懐疑
わたしたちは、何かを決めるときに多数決をとるのが、民主的な手続きだと思っているところがある。過半数を占めることが、決定をするときに重要なことだと思う。意見が分かれたときに、結論が出ないとき、多数決をとることを自然なことだと思っている。
株式会社の株主総会が、しゃんしゃんで決まると言うことが、新聞などで批判されるが、しゃんしゃんでないのはどういうことなのか、あまり考えても見ない。なあなあではないことの逆はなんなのだろう。しゃんしゃんがひどいとは思っていても、議論を意味も無く引っ張るような人がいることもわれわれは知っている。そのことが、悪意ではなく、困らせようと思ってでもなくても、議論自体がスムーズに進んでいる場合でさえ、議論の流れを理解できないで、後から蒸し返すような人は少なからずいることも知っている。じゃあ、会社の社員株主が前列に座って「異議無し!」(今、誤変換で、意義無しがでてきたが、この意味だとしたら、面白い)と叫んでいても、それでしょうがないこともあるよなあ、と思いすらする。きちんと議論をして、多数決で決める教室民主主義は、単なる青臭い議論なのだろうか。とはいうものの、新聞記事で株主総会を批判する記事に読んだ時に、そうだと思ってしまうのはどうしてだろう。
たぶん、ここでは問題の設定の仕方がおかしいのだ。多数決でもなく、声の大きい人の意見をどんなにくだらない意見でもかならず聞かなければならないというのでもない、議論の仕方と言うものがあるのではないか? しゃんしゃんの馴れ合いではなく、議論を尽くしてなお、声が大きいだけの人、論理的だが内容の無い人が主導権をとるのではない議論のありかたというものがあるのではないか。このことは、6日にせんだい・みやぎNPOセンターの代表理事の加藤哲夫さんのところで、加藤さんの本を「市民の日本語(仮タイトル)」というタイトルで、まとめるためにインタビューをしているときに聞いた話から、思ったことである。ネイティブ・アメリカンは、車座になって、村人たちが話をするとき、それは場の神に向かって話すのだと言う。そして、神が乗り移った小さな木の棒をもった人は、誰にも妨げられずに話す権利を持つという。その棒は、車座の人々を回り、誰かが一人だけ話すということは許されない。話す権利と聞く権利を保障された場所。これは、少し宮本常一の「寄り合い」に似ているような気がする。
加藤さんのところに行ったのは、日本語の未来ということを考えるときに、加藤さんの話されることが、非常に関係しているという予感があるからだ。そのための考えるためのとばくち、種を持っていると感じる。6時間近いインタビューをまずはまとめて、それから本に仕立てて行こう。21世紀に画期的な仕事になるのではないだろうか。
大門先生の本の再校を、Pagemakerで手直し。ほぼ完成。たぶん、24時まで仕事。夜ご飯カレーライス。
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