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愛されていない子ども。ここでは、出版社のことを子どもにしました。ある言語学の研究機関、国立の組織から、事務的な手紙が来た。研究所員の昨年発表した論文を転載して、掲載したいとのこと。目的は、所員の業績を世間に知らせたいとのことだった。
ああ、愛の無い話しだ。
これは、組織的なコピー、しかも、無料。出版社が、本を売って生活をしているということをどう考えているのだろうか?
出版社が、無くてもいいと思っているのなら、自分で本にしたらどうだろう。労力が分かるはずだ。
ぐれるぞ。
ひつじでは、読者にメールを送っている。読者と言っても言語学関係の書籍を出しているから、そっち方面に送っているメールニュースである。それを言語学関係者で要らないと言ってくる人がいる。出版社からの情報がいらない言語学研究者というのは、どういう存在だろうか。
本人が、情報をいらなくても、その人の教え子はどうなのだろうか? こういう本が出ているみたいだよ、ということを教えて上げなくていいのだろうか。
あるいは、生きるすべ、として研究書を売るという奇跡のような仕事をしているわれわれのような存在は、不要な存在だと思っているのだろうか。
私の考えは間違っているだろうか。あまりにも愛の無い話しじゃないだろうか。
絵日記は、97年の9月に始まり、今年の9月に1周年をもって終了した。原則として平日毎日更新することを原則としていたこのコーナーは、本当に毎日更新されていたこともあって、寝る前に必ず見るという方など、多くの人に好意的に見てもらっていた。たまたま検索を検索エンジンで行ったところ、ずらりと出てきたこともあった。ホームページにどこからアクセスされているかを見るアクセスログを見るといきなり絵日記から入ってくる人もいて、人気もあることは、分かっていた。見られるホームページの基本として毎日更新するという鉄則があるが、それもこのコーナーによって、維持できていた。ひつじのホームページにとってもかなり重要度の高いコーナーであったということになる。
そもそもの発端は、私がダンボール箱に、本の磨きについてのスタッフの一人の落書きが貼ってあったのを見て、それがなかなか面白いので、これを日記にしてしまおうと考えたのがはじまりだった。それは、一番最初の絵日記の絵になっている。実は、この絵自身はもっと前に書かれていたようだが、気が付いたのがその日であったのだ。彼女もおもしろがって、興に乗って書いてくれて、それがなかなか面白かったので、「毎日絵日記を書いてしまおう」ということになったのである。
私のこころの中では、三つの目論見があった。一つ目は、ひつじのスタッフ全員が、htmlを使えるようにしてしまおうということ。これは、ひつじの将来を考えたときに、オンラインテキストを扱うことのできる体制を作る必要を感じていたが、その前段階の練習をそこでやってしまおう、ということであった。二つ目は、仕事の内容自身が、それほど面白いものでなくても、日々の仕事を観察しあって、何か表現することで、その仕事を客体化して、突き放すことができ、その結果を面白く表現できれば、表現している方も、仕事がつらかったとしても楽しく仕事をすることができるのではいか、ということであった。三つ目は、そのように苦しい仕事も楽しくできるということ、そのこと自体を、外にアピールしたいという気持ちがあった。
このことについて、私は、特にホームページで発信することに興味が無くても、やっていることが面白いのであれば、自然と私の真意を理解し、そして、楽しく仕事が出来るだろうと思っていた。これは、結果として大失敗であった。簡単にいうと、主体的に自分で仕事を面白がろうとする意志のないところでは、それは成功しないということだ。楽しくなければ、楽しく振る舞うことはかえってつらいになるだろう。つまり、仕事がつらい上に、楽しそうに振る舞う仕事まで追加で押し寄せてしまったという結果になってしまったのである。これは、悲劇的なことである。この点については私も深く反省をしている。また、何かを表現することを伴うわけで、そのようなことが嫌いな人間にとって、これは、下手をすると小学校の宿題、読書感想文のようなものになってしまったのかもしれない。
私の得た教訓としては、本人たちが、やりたいという意志がない場合には、多くの場合、善意であっても何かを強制してはいけないということだろう。自分自身のキャパシティを広げることのできる人間なのか、そうではないかのを私が見誤ったということだろう。平田オリザ風にいうと、コンテクストを広げることの出来ない人に、コンテクストを広げることを求めてはいけないということなのだ。しかし、これは次のもっと重要でシビアな問題へと突き進む。出版社という労働集約型の仕事で、仕事を楽しめる能力のない人間がそもそも仕事をすることができるのか、ということである。コンテクストを広げる能力のない人間を、雇い入れると言うことは、出版の仕事を進めていきたい私とその下で仕事をする人間の両方にとって不幸せなことだろう。つまり、そのような人間をスタッフにしてはいけないということなのである。背景として、T-Timeの出荷にともなって、出荷のデータを記録を付けていること言うことを始めたために、仕事の量が、増えてしまったこともあったにしろ。
夏に一人が、辞めた時に、それなりのショックを受けた。本人は気が付いていなかっただろうが、編集者になるための仕事を計画的に与えていた。期待しすぎたことが、問題の一つであったのだろうが、本人の能力を超えて、課題を与えすぎたのだろう。結果として、1年半という期間、もっとも手間のかかる時期であったが、その苦労は水の泡になってしまった。それだけでなく、その後、残った人間と話しをしている内に、残った人間も、彼女の影響からか、ひつじの仕事がつらくなっていることが、わかった。私は、口でも日誌の中でも、将来的なビジョンを語ってきていたが、それについて同情が出来なくなっていることが分かったということだ。コンテキストを私とあわせることが出来なくなってきた、といいかえてもいい。
この時期は、インターネット快適読書術の最末期であり、非常に重要な時期であったこともあり、最終的な判断を先送りすることにした。しかし、残念ながら、9月の段階で様子を見ていたが、ひつじに同情的になるという気配は見られなかった。国会図書館の方が、こんな小さな出版社であるひつじに相談に来てくださるなどということもあったが、ひつじが世間でどのように期待されはじめているのかも、もう理解できないようだった。私が出張に行っていても、「うるさい人間がいなくてラッキー」ということなのだった。私自身、かなり無理をして仕事をしている。その中で、シンパシーがなくて、ひつじの未来について(それは出版の未来でもある)何の関心もない人間に、こっちが気を使って仕事を継続してもらうことは、不可能であるという決断を下さざるを得なかったのである・・・。何度言っても同じ間違いをするし、堪忍袋も切れたということだ。お互い様なのかもしれないが。
私は、本を作ることが好きで、私の考えに共感できるか、広い分野に共感できる人以外とは、いっしょに仕事をすることは出来ないし、しないことにすることにした。
今後、絵日記を別の形にしろ復活させるとしたら、それは新しいスタッフ自身が決めることによってである。また、苦しいことを苦しそうに苦しく書くかも知れないが、それは出版界の現実なのだ。楽しくないかも知れないが、許されたい。
また、今の段階で、スタッフを無理に入れることは、不可能である。私が、毎週一度以上、事務所泊りを続けている状況は、変わらない。仕事は、精力的にこなしてはいる。その能力の範囲で、本を作る。人手が、極度に少ないという状況なので、本の進行は以前よりも緩慢なものになるだろう。
ありがたいことに、来年から、新しいスタッフを迎えることができることになった。彼女は、今は、週に2回来てくれている。ひつじ書房が、新しい局面に向かいつつある中では、本当に適任といえる逸材だ。ひつじは、少しづつ変わりながら、少しづつ前に進みつつあるということができる。
唐突だが、支持をしてくれている多くの方に感謝したい。我々は、順調ではないが、自分たちの義務は精いっぱい果たしていく所存である。
報道被害についての弁護士さんの話しをある会で聞いた。
報道被害とはこういうことだ。ある病院に勤める人間について起こったことでいうと、病院内の対立から、嘘のタレコミを警察署にされ、逮捕されてしまった。病院というものは、健康診断とかに、利益の出る構造があるのだそうだが、学校に賄賂をおくってその健康診断を受注していたという容疑がかけられ、新聞には、その利権を得るために地元のやくざとの関係があるとまで書かれてしまっていたとのことであった。このことで、それまで地元で信頼されていたその人は、拘留を解かれて帰宅するとき、今までの信頼を失い、地域の中で、疎外される存在になっていることに驚いたという。
印象に残った言葉は、朝の6時から、夜の3時まで、仕事に熱心に取り組む優秀な記者が、その仕事ぶりによっていっそう冤罪を引き起こしやすいのだということであった。これは構造的なものであるということなのだろう。
一方、オーストラリアの場合、裁判所に連れて行かれても3割は無罪になるということで、逮捕や起訴ということについて市民は冷静であるという話しもあった。新聞や裁判所、警察署についての過剰な信用が、冤罪を発生させ、報道被害を引き起こしているのではないかと私は思った。
私の関心は、飛躍する。
健康診断と弁護士ということが、頭の中でショートしてしまった。医療に健康診断があって、学校は校医さんが見に行く。健康診断は、たぶん、学童の健康を図るということと、歴史的には、健康な国民=兵隊ということが背後にはあるだろう。保健室もある。であるならば、学校弁護士というのもいてもいいのではないか?また、弁護士室というものがあって、子どもや先生が相談に行く。そういうことになれば、人権が守られやすい環境になるのでは? 出版人としては、やはり、読書案内人というものも派遣したいものだ。また、校医があるのなら、学校に専属の読書コンサルタントもいてもいいのではないか。司書がいるんではないかって? その機能を果たしているだろうか。
マツノ書店の松村さんにお会いした。マツノ書店は、山口県の徳山から、山口県史を世界に発信する非常にユニークで重要な出版社である。松村さんは、『六時閉店』という本を出されていて、出版社を志して以来、この本は私の2冊のバイブルの内の1冊になっている。小さな学術書を出していくためのノウハウが満載の本なのである。ノウハウだけではなくて、大事な心構えについても知ることができる。もっとも訓辞のようにこのようにしなさいということは、一切書いてない。書いているその視線とか文章の明るさと軽さが、出版業を継続するためには、しなやかさが必要であるということを教えてくれるのである。
初めてお会いしたが、長年の憧れの先達と会ったという気持ちで、ちょっと不思議な気持ちになった。スイマセン。もっと丁重な感じでお迎えするべきであったようにも思うのだが、気さくなお人柄で、勝手にくつろいでしまったようだ。実は私が、この日誌を付けているのも、自社のPR用のお知らせの中で、松村さんの書かれている「火車通信」の真似をしているのである。そのインターネット版をめざしているのだ。
ぎょうせいが出している「遥か」という雑誌に書いた文章で『六時閉店』について書かせていただいたのだが、それをお送りしてから、お手紙をいただくようになった。「遥か」での紹介のお礼と言うことでご馳走になってしまった。大先輩なのだが、とても気さくな方であった。今は、65歳ということであったが、とても若く見えた。私も、気負わず、つぶれず継続していきたいものだ。
今、本を書いている。出版ということについて、この数年間、考えてきたこと、実践してきたことの報告と、将来への考えをまとめたものだ。個人的な感情を抜きにして、やはり、1999年になって出版というもの、学術書というもの、研究という学問産業のことを考える時には、批判も多く受けるかも知れないが、まじめに考えてきたという点で、価値がないわけはないと思う。今、賀内さんに読んでもらっていて、書き直すことも少なくないと思うが、とりあえず、初校以前のバージョンとして、T-TimeかT-TimeLiteを持っていれば読むことのできるようにして、上げた。よろしければ、すぐにお読みいただいて、批判を下さい。年明けには、初校へ移行するので、批判は受け入れていきたいと思う。ただ、抜本的な訂正は、今回の本が、ひつじにとって赤字でなかった場合の次回の本で行うことになるだろう・・・。2月2日、妻の誕生日に間に合わせると約束しているものだから・・・。
12号の会報が届いた。私は、当日の話しが下手すぎて、だいぶ、書き加えてしまった。できたものは、なかなかのものだ。特に鈴木一誌さんの富田さんへの「注文」は、とても鋭い。別の機会に、紹介したいと思う。
ここでは、萩野生政さんからの富田さんや松本は組版を豪華本のことと思っている、ということばに反応しておく。私の手元にPeoplewareという本がある。英語で書かれた本だ。表紙には10万部突破と書かれている。売れていないわけではないようだ。この本を知ったのは、例のLinux礼賛の「伽藍とバザール」論文で参照されていたからだが、ソフトウェアをどう生産的に作るかというソフトウェアマネジメントの本である。なかなか機知に富んだ文章で面白い。章の見出が「今日もどこかで、プロジェクトが失敗でしてている」とか「9時から5時までには何もできない」とか。話しを戻す。内容は、ソフトウェアプロジェクトの方法だが、組織論としてもマネジメント論としてもソフトウェア文化論としても面白い、オリジナルな議論をしている本と見受けた。一方、本の作り方はmDTPソフトの使い方を習って1週間目の人が作ったようなかんじだ。ちゃっちいのである。英語だから、本当に簡単に作っている感じ。
方や、私の手元にたまたま岩波書店の社会学講座がある。いわゆる講座ものである。ハードカバーで、なかなか綺麗な作りである。だが、豪華本ではない。綺麗だが、豪華本ではない。こいつらが問題なのだ。はっきり言って、こっちの講座ものにはオリジナリティはナイ。寄せ集めである。著者の思考とつきあって、テキストを産み出したということは全くない。あるのは、有名な編者が選んだ執筆者に対するスケジュール管理された原稿催促だけだろう。
私は、ここにおおきな間違いがあるのだと言いたい。綺麗にこざっぱりとまとまることを思考する日本の既存の出版文化。そういうものを打ち破らない限り、本の未来はないのではないか。DTPソフト初心者程度の組版技術でも、オリジナルな内容のないものよりもいいではないか。とにかく、とりあえずそういった「組版」は、捨ててしまおうということなのだ。
岩波書店がオリジナルな本を刊行できず、その原因が、その美しい装丁にあるならば、やめてしまおう、ということだ。普通に綺麗と言うこともすでに過剰でさえあるのだ。PeopleWareを見よ!