2001年10月3日(水)

メディアリテラシーについて

メディアリテラシーということばが、あちこちできかれるようになった。菅谷明子さんの本『メディアリテラシー』がでたときには、まだ、あまり知られていなかったと思うのだけれど、このところの急速の普及は驚くばかりである。

だが、これが、メディアリテラシーであるという人の話を聞いていて、それがかなり専門的にやっている人であっても、あるいはメディアに関わりがある人であっても、どうもおかしいなと思うことが少なくない。そんなことを言うのにメディアリテラシーという言葉を使う必要がないのではないかと思ってしまうことも多い。名前が普及するのと理解が普及するのとではまるっきり違うということのようだ。

分類する

1 放送業界に多いタイプ

メディアというとそれは、マスメディアであるという前提になってしまう。本や封筒とか、あるいは電灯とか、箸袋などはメディアに入らない。見る側が、注意深く見れば、世の中ハッピーという人が多い。作り手の気持ちを理解することがメディアリテラシーだと思っているかのようである。

作り手でありながら、つくる際のコストや社会的な意味については、あまり考えない。放送の多くが、受信料や広告代理店によって、お金が支払われていることによるのだろう。制作現場の人々は、プロダクション会社の経営者でもないかぎり、お金のやりとりが見えない。

放送業界と組んで、メディアリテラシー教育を学校で行おうとしている人の中にも、メディア・イコール・マスメディアだと思っている人が、少なくないので困る。やるべきなのは、単なる「よい視聴者教育」ではないだろうと私は思うのだが。また、不思議なことに報道番組しか、意識に上らない。広告やドラマ、クイズ、バラエティなどは関係ないようだ。これもマスメディアではないらしい。

<受け手のリテラシーしか問題にしない><メディアというのはマスメディアのことだと思って、疑いを持たない>これは「視聴者教育」と言えば、十分である。メディアリテラシーと呼ぶ必要はない。

2「市民派」1

メディアをマスメディアとしか思わない点では、1と同じ。こちらは、マスメディアは、真実を悪く伝えるので、マスメディアの悪意を取り除けばいいと思っている。真実が、あると思っているタイプ。

この問題点は、既存のマスメディアではない人が、発信者になれば、それで済むと思っている、一方、本気で、オルタナティブなメディアを立てようとはあまり思っていない。作り手に立とうという気持ちがないから、悪意は、マスメディアの作り手にあり、見る側は、無垢であるという前提が強い。

要するに<マスメディアが悪い>と言っているだけである。「視聴者教育」の裏返しで、「マスメディア関係者を矯正してやる」の意識強し。

3「市民派」2

メディアがマスメディアであるから、だめなので、インターネットに変われば、市民のものになると思っていて、疑わないタイプ。マスメディアには手垢が付いているが、インターネットなどの新しいメディアには、手垢が付いていないから市民のものであり、プライバシーやデジタルデバイドさえ、気を付けていれば大丈夫という楽観的なことをいう場合がある。IP技術であるから、民衆のものであるというのは、楽観的すぎないだろうか? ここでは、すべてのメディアが、無線放送になれば、よいとする人たちにもこのけらいがないでもない。中継ぎがなければよいとする「作家産直主義者」なども同様の危険性あり。編集者不要論とか、オープンソース派の一部もここか。

<メディアというもの自体は、基本的には中立だと思っている。><メディア史などに対する興味・知識がないようなので、人文・社会科学の知識を持つことをお薦めしたい。ラジオの歴史についての本『メディアの生成』(水越伸さんの本)、『メディアとしての電話』は特におすすめ。


メディアリテラシー再考

●メディアもリテラシーも社会的に構成されているものであること。

悪意があろうと無かろうと、メディアは、森羅万象の中から、人間の視角・思考でとらえれる範囲のものに切り出す。これはことばについて考えると一番分かりやすい。白い犬も黒い犬も野犬も飼い犬も、黒くて白のブチがあって、鼻の頭が濡れていて・・・。イヌと呼ばれる生き物は様々だ。その上、スヌーピーもイヌだということになっている。個別の特徴を省略して、抽象化して、ある共通する特徴を持った「生き物」たちをイヌと呼ぶ。イヌと呼ぶためには、日本語という社会的なルールが必要である。

しかし、ことばというものは、個人的な表現でありながら、人の共感を得ることができるものもメディアである。個人的・共同的な表現と呼ぼう。表現は、常に陳腐化する危険性があり、個人と共同の中で、挑戦しつづけていると言えよう。あることに名前を付けてしまうことは、固定化してしまう危険性を持っている。これらは、すべてのメディア自体が持っている可能性と危険性である。

●メディアは、編集されるものであり、作り出されているものである。

●人間の情報処理能力には、限界があり、その限界の中に治めるためにステレオタイプや物語化が行われる。

●つくる人によって、みる人の能力を想定している。

その想定のレベルは、メディアの特質、規模によって影響される。マスメディアは、一般的、大衆的になりやすく、小さなメディアは、個別的、マイナー的、ニッチ的、専門的になりやすい。ただし、「大衆」の意見は、意味がないが、趣向は高度であることが少なくなく。専門家の意見は、大衆の意見より優れていることが多いが、大衆の趣向が専門家の意見よりも優れていることは少なくない。


メディアリテラシー(教育)は、作り手にもなりうるし、メディアの主体は、究極的には自分自身であり、メディア自身もつくりうるということを確信すること。

この点で、放送をメディアリテラシー教育に使うのは、あまり、よい方法とは思えない。番組は作れても、メディアをつくることはなかなか難しいと思うからである。町内新聞のような身近なメディアをつくって、地元の商店街のレストランとかCDショップに有料で、おいてもらうとかの方がリアルなのではないだろうか。

小学生の向けの起業家教育とメディアリテラシー教育を合体させることができれば、充分に可能であると思う。

十分なまとめになっていないが、ひとまず、これを起点に何回か考えたい。メディアを作るという意識をもつということは、作るコストを感じるということも必要である。自分自身が、出版社を作る、新聞社を作る、放送局を作るといってことを想像してみるだけの経営的想像力も必須のものになってくるだろうのではないだろうか。喫茶店向けの50円のポストカードを作って、一生懸命においてもらった中学生の方が、たとえば、NHKで、番組を作っているプロよりもメディアリテラシーが高度であるということは十分に考えられるだろう。

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