2001年5月29日(月)

大学生時代に冬樹社という出版社でバイトをしていた―知識はそんなに楽しくない―

私は、大学生時代に冬樹社という出版社でバイトをしていた。本の出荷をしていたわけだが、浅田彰のGSなどという雑誌を出していた。蓮見重彦とか。はやりの本を出している出版社であった。私も柄谷行人の本とか読んでいたこともあり、バイトが決まったときには喜んだものだ。

しかし、まあ、驚いたのは、本が手で出荷されていることを知ったときだ。大きな自動販売機のような工場のようなものがあって、書名を入力すると自動的にピッキングされて、本が出荷できるようになって、送り出されるとなぜか思いこんでいたのが、紙製の半ピレで注文が来、それを汚れた棚から、探し出して、その半ピレ(注文短冊という)を本に挟み込んで、積み重ねていく。本を集め終わると正社員の人が来て、冊数を確認して、あっていればオーケーというわけだ。

あこがれて入った冬樹社であったが、幻滅のような気持ちにかわった。まずは、本の世界はきれいで、華々しいのに、実際に扱っている人が、どうも苦しそうであったこと。坂本龍一と高橋悠治の『長電話』という本は売れているように見えたが、営業の男性が、ぜんぜんもうからない、表紙が堅いビニールなので、直ぐ傷が付いてしまう、何やってんだか、ばかばかしい、ということを言っていたこと。ぜんぜん、儲かっていないばかりか、カッコを付けることの裏返しに、ソンをしているらしいこと。それもうれしい苦労と言うよりも、どうも苦しい苦労をしているような言いぶりであったこと。時給が500円であり、そもそも儲からないのが実感できたこと。ここで、誤解しないでほしいのは、儲からないことが悪いことではない、これも営業の人が言っていたが、「ウチは、3番煎じはやらないけど、最初じゃない」と言っていたこと。かっこいい著者を見つけるにしろ、その先がいるということ。自前で見つけたとはいいがたいことが多かったのではないか。国文学では有名になっている古橋さんの本もだしていたが、売れていたんだろうか。いずれにしろ、やせ我慢の苦渋がたどよっていた。

加えるにこれはもう時効であろうが、私の友人から「冬樹社には○○さんている?」と聞かれたことがある。彼はあるクレジット会社にバイトしていたのだが、その○○さんは(正直でいい人なのだろうが)、30歳を超えていたと思うが、年収を200万円と書いていたというのである。その当時20年前でもこれは安すぎる。著名な著者の著名な本を出している出版社であっても、外見的には非常に受けのよい出版社であっても、つまり、アカデミズムの頑迷さと遠い、デザインが斬新で、自由だと思われている出版社の現実がそんなものだということ。

これは西川さんの『文学者はつくられる』への「学術を超えよ」という書評があまりにもばかばかしいことの実感的な反感の根底にあるものかもしれない。アカデミズムを抜け出たところに、救いがあるわけではないのである。まあ、冬樹社がポストモダンの本を出す出版社であったかは、怪しいかも知れない。でも、GSのようなものは信用できないのだ。

このことは私の編集者としての幅をせばめているかも知れない。山口昌男とか中沢新一とか、その路線が、うそ臭く感じてしまうせいで、その手の本を出したいと思わないからである。でも、山口さんが、息子が海外から帰ってきたときに、出版社の人間に迎えに来させたとか聞くと、どうもね、と思わざると得ないだろう。旧来型の学術が、問題であるにしろ、その枠を超えようと言う世代もたいした違いはないという気になってもばちはあたらないだろう。

GSに対する不信。ということで、今回の本題。出版学会に入ることにしたが、会報の巻頭論文に「la gaya scienza―悦ばしき知識―」というのが、載っていた。楽しい知識も悦ばしき知識も、冗談じゃない。念のために言っておくと、GSというのは、la gaya scienzaの略だ。この論文は、冒頭がこうだ。「かつてP.F.ドラッガーは60年代初頭に米国の流通機構を・・・」。残念ながら、これでは1970年代の東大教授の文章ではないか。最近だと天声人語あたりに残っており、広辞苑を引用したり、有名人の引用からはじめることは、社長が、雑誌に寄稿を依頼されたときによく使う手だ。

冬樹社は、1990年代の前半に潰れた。それなのに、日本エディタースクールに、冬樹社に入った卒業生の声が、今だに、そのまま載っているのはなぜだ。それにしても、冬樹社を知る人も少なくなってきたのではないだろうか。

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