2001年1月16日(火)、美談にエコーをかけなくても・・・

これでは子どもはキレる

倉庫に行って本を積んでの帰り。タクシーからはNHKの第一放送の10時半、気持ちの悪い声が聞こえてきた。こどもに自然の営みを教えるのだそうで、いろいろいいことをやっているらしい。しかし、タクシーの運転手に、そのラジオをとめてくれー、と叫びたくなるほど気持ちの悪い内容と話ぶりであった。

最後に突然、朗読?歌のようなことばを話だし、驚いたことには、声にはエコーがかかり、背景にはピアノの伴奏が流れている。

歌詞を良く覚えていないが、こんな感じ。

「小学校の庭に川を作ろうよ〜♪

メダカも泳いでるよ〜♪

自然と仲良くしようよ〜♪」

これを小学校などでやっているということだ。私が小学生なら、ナイフで刺すのではないか。私が親なら、転校させる。どうして標語にしていまうのか、もし、本当に子どものことを思うのなら、ことばにしないで、答えのように与えないで、ただ、見守るだろう。

よいことばをいえば、伝わる。この善意の無神経さはどこからくるのだろうか?ここには、良いことばは使えば、子どもに伝わり、子どもは良い人になるという確信がある。ことばに対する徹底的な無考察がここにはある。

エコーがかかっているのはどうしてなのだろうか?

先日、水越伸さんが音頭をとって、MELLプロジェクトというのが立ち上がった。メディアリテラシーをめぐるプロジェクトであった。東大でシンポジウムが開かれた。参加している人がテレビ局、しかも、報道系の人が多かった。

でも、根本的に不思議に思うのは、ことばというものをメディアと捉えて、その機能を考えるところまでやっている、人がいないのではないかということだ。コミュニケーションモデルを、きちんと作りなおさないといけないのではないだろうか。その点で言うと、いろいろとすでに問われている「報道」の部門ではなく、ドラマのプロデューサーとか、郷土ネタ、美談ネタを放送するセクションの人々こそが、メディアリテラシーに興味を持つべきだろう。タシカに河野さんの事件の様な、間違った報道はないかもしれない、でも、独りよがりで、多くの人々の「美談好き」な気持ちにはあっているのかもしれないが、善意で、人の心を破壊している愚行もきっちり捉え直してしてもらいたいと思う。でも、そのためには、言語コミュニケーション論の裏付けが必要なのかも知れない。

この種の善意がおかしいのは、そもそも人を信頼していないことにある。人の心の中に、自然と育ってくる気持ちを待ちきれずに、答えとして与えてしまうことにある。待たずに答えとして与えても本物ではないといえば、善意の愚か者にも通じるだろうか?人は善人にもなるし、悪人にもなる、それは自分の気持ちとしてなるのであって、先に答えを与えるべきではない、といっても分かってもらえないだろうか。

私の親と話していて、非常にがっかりし、残念なのは、60代以上の世代は、いいことをいうことがいいことだ、ということを何故か信じていて、そのことが、子どもの主体的な判断能力を奪い、無気力にしている原因があるということの罪にどうしても気が付いてくれないからだ。どうしてなんだろうか?

「いいこと→伝わる」というコミュニケーションモデルを超えるコミュニケーションモデルが必要なのではないか。これは、不達のコミュニケーション理論ということになると思うが、やはり、高本さんに仕事をしてもらうしかないのではないか。

番組表によると<いきいき倶楽部「小動物ヤマネに魅せられて 湊秋作」>とのこと。


夜はペペロンチーでビザ。ゴロゴンドーラピザって、どういうの?

明けまして!

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