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2000年12月3日 『日本語記述文法の理論』、金田一賞受賞
近藤泰弘さんの『日本語記述文法の理論』が、金田一賞を受賞した。その授賞式に三省堂の新宿ビルに行って来た。受賞のことばは、追って入力して転載したいと思うが、本書の受賞は本当にうれしい。金田一賞は、言語学・国語学の分野で最高の賞である。
ここでは、受賞した近藤先生の本の内容ではなくて、それについては、別の機会にきちんと行うことにして、ひつじとしての感慨を述べたい。ひつじが10周年であるこの年、20世紀最後の年にこの本で受賞したことはうれしい。ひつじの活動がこの本によって認められたような気がする。そのことを項目にしよう。
- 日本語の文法的な研究であること
- 古代語研究と現代語の研究の融合したものであること
- さらにダイクシスやコーパス言語学・情報工学の新しい研究方法を示していること
- この点で、ひつじがめざしていた日本語学の理想的なありかたを指し示していること
- 現代語だけであれば、より安価な値段を付けることができたと思うが、古代ども含んでいる比較的高額できちんとした本であること
これらの総合が、くろしお出版ともちがい、麦書房ともちがい、従来の国語学系の出版社とも違う目指した路線であったということである。このような内容の研究が受賞したこと。それは私にとってもとてもうれしいことなのである。
しかし、2の点についていえば、国語学会が日本語学会に進化することが、事実上、困難になった現在、複雑な思いが胸をめぐる。それが、日本語文法学会ができた年であることは、感慨を抱かざるを得ないだろう。この学会は、古代語の研究は支えられないのではないだろうか。
さらに、現代語が中心になると思われる日本語文法学会は、今までの実績から当然ではあると思うが、くろしお出版と提携することにしたようだ。もちろん、ひつじも今後も現代日本語の出版を中心にしていくことにはかわりはないが、今まで、旧来の国語学的な研究もどうにか変わってくれることを祈っており、古代語の研究書も刊行してきたのであるが、国語学が変わる可能性を失い、したがって、そこは軸足の置場所ではなくなるだろう、さらに現代日本語のジャンルであれば、そこにくろしお出版が、当然のことであるけれども、おおきな位置をしめるということがある中では、新しい軸足を見つけるべきであろう。日本語研究も、拡張期を終わり、建て直しの時期に入っている中では、くろしおさんの他にもう一社の余地はなくなると考えるべきだろう。少なくとも、夫婦二人の体制を維持することは難しく、私一人分の空き地しかないのであれば、これはじり貧になるばかりだろう。一人でよい出版の仕事をしている出版社はあるが、まもりに入って、ぼそぼそと続けるのはいやだ。
新しい他の場所を探すということは、少しずつはじめていることではあるが、困難は続くと言うことに思える。出版社は10年たつと屋台骨ができ、経営が安定するというのが、かつての話であったが、今はそういう時代ではない。10周年を終え、21世紀に入ろうとする今、思いをめぐらせることは多い。近藤先生の受賞を喜ぶとともに、ひつじの行く末について考えた次第である。
2000年12月6日 知のパラダイム試論
知のパラダイムということで考えてみた。
2000年12月6日B 横浜市立図書館公開要望書
以下参照
2000年12月7日 情報学環の創業シンポジウム
先日、東京大学、本郷の安田講堂で開かれた情報学環の創業シンポジウムに出かけた。理系 と文系の融合ということと、情報と言うことに特化した新しい学問センターを作ろう ということであった。このことは面白いし、さすが東大というところはある。
しかし、情報というときに、今一番重要なのは何か、私の考えでは、情報の発生の仕方と流通の仕 方がかわったということである。上で発生し、上から下へ、抑制する形で情報は伝わらないという ことであり、情報は無色透明ではないということ。ノイズが混ざるということであ る。下から上へ、あるいは横から横へということもあり、うまく情報が伝わらないと 言うこともある。
もう少し具体的に言うと、ある町があり、昔から住んでいる人々、最近こしてきた人 々。さらにその町は企業の城下町であったが、その企業は実はもう少しでつぶれそう だとしよう。もし、その町に住んでいる新しい人、古い人が、これからもその町に住 み必要があるとした場合、これからその町をどうしていくか、今までコミュニケーシ ョン、つまり情報のやりとりをしてこなかった人々同志が情報を交換し、理解し合う のではなく、町を何とかするという限られた目的の範囲で合意し、協力していかなけ ればならないとする。
この場合の情報はどこからでてきて、どのように組み合わされていくのだろうか。こ のようなことは、実際にはあちこちの町で起こっていることなのである。市民自身に とっての情報の取り扱い・・・。そういうことがある中では、新しい試みもそのよう なことに答えるのではなく、勝手にアカデミズムの中で、新しくなっていってエリー トを再生産する場所(当日のビデオでの各界からのコメントの中にあった。その人の発言意図は肯定的)を作ったと思われても仕方がないのではないだろうか?
せめて、NPOにかかわる人とか単なる建築ではなく、まちづくりに関わっているよう な人がそこに加わっている必要があったのではないだろうか。理系と文系の融合だけ ではまったく不十分であり、会では、学科が縦糸だとするとそれを越えて、横糸が学 問には必要であるということが再三述べられていたが、学問と市民の融合を目指すよ うな「斜め糸」あるいは、一度ほぐして編み直すことが必要なのではないか。ともあれ、新しい挑戦がはじまったということは、慶賀すべきことであり、祝福すべきだと思う。アメリカのNPOについても、取材しているジャーナリストの菅谷明子さんも関係しているということであり、私の願うような方向―市民サイドの情報も関わっていく―も次第に出てくるのだろうと予想している。
2000年12月8日 横浜市立図書館の人に腐ったタマネギを投げつけろ
3月に図書館研究会があって、シンポジウムで話をすることになったことは、書いただろうか。今日、事務局から連絡があって、横浜市立中央図書館の方が、パネラーであるという連絡をメールでもらった。私は、即刻、辞退したい旨をメールで出した。しかしまあ、きつい批判をしてはいけないということはない、という事務局の説明なので、出ることにした。
火曜日に、開かれた公共図書館と電子メディアのシンポジウムでも、フロアーから横浜市立図書館の人<誤解はないと思うが、上記とは別の人>が発言したが、ぜんぜん悪びれていない。個人と組織は違うというこというのだろうか? でも、私は納得できない。情報のエコロジーシステムを破壊している組織に在籍しながら、そのことと無関係に発言できるものだろうか。発言しなければよい。しかし、発言する資格はないと思う。黙っているべきだ。
その時の彼女の発言内容は、CD-ROMやら電子メディアを活用しているという内容だったような気がするが、それを私的利用と言うことで、どんどんコピーさせているということだろうか? 発言内容は違うものだったかもしれないが、やることなすこと、すべて著作の権利を踏みにじっているとしか聞こえない。私の耳が、そういう耳になっているということだが、この著作権の問題は、図書館のサービス全体に関わることなので、そことをきちんとしないと議論できない根幹的な問題なのである。
以下が大会の趣旨。
出版・読者の変容と図書館 出版・出版流通の低迷が指摘され、出版の危機が叫ばれて久しい。情報 流通形態の変化と多様化、ビジネス・モデルの変化がその背景にある。あ の『ブリタニカ百科事典』は、今やインターネット上の巨大な「おまけ」 である。 読者も多様化している。TVゲームから愛や人間関係の機微をシミュレ ーション的に学ぶ世代の出現が指摘されて久しい。少なくとも、旧来から の「読書人」とは異なる性向を持つ読者が生まれ、出版・情報流通産業を 支え、あるいはそれを逆に規定している。出版の変容と読者の変容は、相 互に関連しながら我々の社会の情報流通の変容を生み出している。 しかしながら、情報流通「形態」の変容が、人が人からメッセージを受 け取る心的構造や、情報流通の社会的格差を変えるとは必ずしも言えない。 アメリカの「デジタル・デバイド」に関する経年調査は、「デジタル・デ バイド」とは決して新しい現象ではなく、旧来からの社会格差に対応する 情報格差がより拡がる現象でもあるという事実を告げる。 こうした中、人の「知る権利」を保障し、人と資料をむすびつける役割 を社会的に担う機関である図書館の役割も否応なく変容するし、また変わ らないだろう。何が変わり、何が変わらないのか。何を変え、何を変える べきではないのか。社会の明日を見据えた論議を交わしたい。とのことだが、自分が実際にやっていることから発言するしかないわけで、頭の中の空論を話しても意味がないのであるならば、まず、自身の所属する組織が、めちゃくちゃをやっているということをどう思うのかを、話してもらうしかないだろう。そうでなければ、腐ったタマネギ*を投げつけることになるだろう。そんなことはしはしないが、自分が一図書館員であるから、それだけで、許されると思うなら、それは大間違いだ。どんな対応を実際にしているのか、それをきっちり聞かせていただくことにする。
注
*腐ったタマネギ* 浅草に合羽橋というレストラン・厨房用品を売っている商店街がある。そこには、作りものの葡萄やニンニク、タマネギなどの、イタリアレストランの壁によく飾ってあるものが売っている。なかなか良くできていて、見た目にはホンモノそのものという感じ。特に葡萄などは、さわるとプニプニしていて、気持ちがいい。2000年12月11日 ひつじが出したい本
喉をやられ、おなかも下り気味で、風邪をひきかけていたので、大事をとって、創立大会の初日に顔だけ出して、帰ってきた。荷物を当日に宅配便で持ち込んでほしいということだったが、ふらふらしている風邪気味状態で一人では、荷が重い。二人でいければ、よかったのだが、人手がなかったので、しかたがない。今回は、本を売るのを断念し、見本を持って行くことにした。今後はこのようなかたちの学会運営が増えるのであれば対応策を考えなければならないことになるかもしれない。私が行くしかないので、体調がよくなければ、対応できないという人手のなさは、ひつじの問題だが、今のところは改善策はない。できることなら、荷物くらい前もって預かってほしいものだ。普通はそうしているだろう。最初は、本もたくさん持っていって大きな店を広げようと思っていたのだが、断念せざるを得なかった。泊まりで、滞在する予定だったが、この年末を乗り切るには、倒れてしまってはまずいので、そうそうに帰ってきた。娘がいないころなら、夫婦で京都くらいまでは車で楽々行ったが、最近は難しい。子連れでいけるようになるまでは、まだ、しばらくはかかるだろう。
学会については、できるべきものができたという気がする。初回で、いろいろな関係者のご苦労があったと思うが、ともかくスタートしたことを喜びたい。
御祝い
日本語文法学会が、20世紀最後の年に創立するということ、まことにおめでとうございます。お祝い申し上げます。
日本語学を支援するために創業したわれわれも、10年が過ぎました。ちょうどこの時期に新しい学会ができることは、われわれにとっても、大きな一区切りであり、さらに発展の時期が来たと思います。今は、青年人口の減少と大学の組織改革と日本社会の近代化の問い直しという大きな時代の転換点です。学術機関としての学会、大学というものも、他の学会や学科との競争、淘汰の熾烈な時代になっています。当たり前のことですが、アカウンタビリティも問われています。きちんと説明して、説得して、実績を上げなければ、学問としても成長はなく、衰退するということです。大学にも倒産するところもあり、学部・学科も消えてしまうところもあり、激しい学問競争の時代がくることが予想されます。日本語学は、この十年間、比較的有利な位置をしめてきたと思います。その次のさらなる発展を目指したのが、今回の学会創設だと思います。
われわれの出版社の使命は、「日本語文法学」の研究をさらに支援すると同時にアカウンタビリティを高め、研究者はもとより、多くの人々に研究を知ってもらい学問の競争力を高めるということです。具体的には研究者と相談して企画をたて、さらに刊行した研究書を丁寧に売っていくことがわれわれの仕事になります。本が売れるということは、貴重な身銭を切って、本を買っていただいているということであり、そういう方によって、われわればかりではなく、研究も支えられています。
出版社の仕事において、支援していきたいと思っています。
ひつじ書房 房主
帰り道、Mさんと京都までご一緒した。「ひつじは出す本をかなり絞っているんですよね」とおっしゃる。「そんなことはないんですけど。著者が複数の論文集は、やりたくないとはいっていますが、個人の論文集とかは、だすことにしていますよ」と申し上げた。私は、いろいろ勝手なことを言ってはいるが、本を出すのが仕事であるひつじ書房が、本を出さないということはない。積極的に出していきたいと思っている。その点は誤解のないようにお願いしたい。
出したい本を上げることにしよう。
ひつじが出したい本
1 文法研究
できれば、末梢的なものではなく、語の成り立ち、文の成り立ち、談話の成り立ちのような言語のシステムに関わるものがいい。認知的なものもここに含まれる。
2 談話研究・対話研究
パイオニア的な研究を求む。事例をただカウントしましたというようなものは、あまりおもしろくない。とはいうものの、今まで多くの人が気がつかなかった事例を見つけているもの、あるいは事例を集積しているということはおもしろい。たとえば、病院での医師と患者の談話データとか。子供同士の会話とか。取締役会の談話資料。
3 言語を中心にしたコミュニケーション
たとえば、異文化コミュニケーション。でも、日本の地域に文化のコアがなくなっていることについての認識があるものがいい。そうではないと、ひたすら許容せよ、とか、あらかじめ注意を払えという議論になってしまう。軋轢や誤解はあってはいけないものではない、乗り越えていければいいのだ、と思うので。マニュアルっぽいのは嫌い。
4 メディア論
たとえば、教室のメディア論、親のメディア論をやってくれる人がいないだろうか。あまりカルスタっぽいのは好みではない。イデオロギー批判にとどまっているのは、いまいち。
以下はタイトルのみ
5 臨床哲学
6 NPOに関連するもの
朝早く目が覚めたので、自宅のマックでつくったGIFアニメ。
横浜市立図書館のある方と、たいへん私の失礼な発端の後に、誠実に議論した結果―多くの方が、この人のようであるといいのだが。この方には、こころから感謝をいいたい―気が付いたことがある。
何に気が付いたかをいうまえに、少し回り道をする。
図書館業界の人に横浜図書館の人に、冗談じゃないと抗議したいと言うと、みな同じことを言う。組織と個人は違うというのだ。組織は問題かも知れないが、組織の壁が強くて仕方がなかったからだという答えが返ってくる。組織と個人の責任と言う問題には深入りしたくない。ただ、感じるのは横浜市立図書館の人は反対をしたというが、私に言わせればかなり生温いということだ。生温いと感じたからこそ、線を踏み越えた批判を行った。
最初に問題にした国会図書館の南さんによると「横浜市方式のセルフコピー問題」は、著作権の講習会の際に、よその図書館の人から、横浜ではこういうことをやっているが、どうなのか、と聞かれて、事実を知ったということだ。本当に反対しているのなら、どうして、横浜市立図書館の人が先にリークするなり、 日本図書館協会に知らせ、そちら経由で問題になるようにしなかったのか。
私が、図書館員であれば、上司に言えない立場であっても、そのようにするだろう。あるいは、図書館の関連団体でもいい、出版業界紙でもいい。どうして、問題が公になるようにしなかったのか? 南さんが論文を書く前に。
さらに、先日のシンポジウムの際に、ある図書館の人が、横浜市立図書館の人に聞いたら、「出版社から抗議は今のところ、来ていない」「来れば、そとからの反対の声 で対応できるのだが」ということだった。
この発言は、また聞きだが、問題をあきらかにしていると思う。
- 出版界の意識が薄いし、動きが鈍い。大手の出版社は、図書館でのコピーに対して、法律的な見地からは、口では抗議をするが、自分の身が切られるような思いをしていないから、本気で考えていない。これは著作権・出版権委員会について触れた文章を参照してほしい。
- 図書館員は、そとからの抗議待ちである
- にもかかわらず、抗議が来るように知り合いの出版社をそそのかすこともしない。図書館界と慣例の深い出版社は沢山あるはずであるのに、相談してみようとも思われなかったということは、何とふがいない関係であることか
気が付いたことを、現状の課題に対して認識が甘いということなのだ。さらに、図書館だけの問題ではなく、これから、オンラインで情報が流れる時代に、出版界も図書館界も認識が非常に甘いというべきだ。
私はインターネットで電子本・電子情報が読める時代―あるいはもっと読めるようになるべきである時代―は、ライセンス処理の問題は、非常に重要であり、優先順位は高い問題だと思う。それがどうにかできなければ、情報は閉じこめられてしまうか、コピーし放題となり、コンテンツ制作者―出版社も著者も―死に絶えてしまうと思うからだ。本という情報を生産するもっとも根本的な問題だと私は認識している。したがって、様々ある問題の中でも、優先順位から言うと非常に高いものなのだ。 21世紀には、図書館は市民の<つくる場合も、消費する場合も>情報支援の機関になると信じている私にとって、非常に高度な課題なのだ。そのために、投げ銭システムを提唱し、そもそも図書館の人々と関係ができたのは、昨年の「投げ銭ワークショップ」の2回目からである。しかし、その認識は、残念ながら、図書館の方々と共有できているものではないのだということを知った。そもそも、もしかしたら、日本でこのことを一生懸命に考えているのは坂本龍一と私だけかもしれない。
先日の根本さんの主催するシンポジウムでの横浜市立図書館の人の発言を問題にしたが、問題にしたのは発言の内容ではない。その人が、私的複製を許容すると言ったから憤慨しているということではない。その人も、そんな発言はしていない。コピー問題を解決できていない図書館の人が、優れたデータベースを入れることを推進しているなどと、いくらよい発言をしていたとしても、それが、無法コピーを館が、推進していることを停止しないで進めるならば、それは問題であるということに気が付いていないことを問題にしたのである。無法なコピーを個人で反対しているかもしれないが、阻止できていないのなら、本を買うこと自体、問題だといいたいし、その危険に気が付いていないということは、組織と個人という問題を、使って、責任を果たせない無責任な位置にいる自らを省みないということだからである。そのような組織があること自体、無法コピーを推進していることになるのだ。であるならば、所属を名乗って発言するのなら、せめて、恥ずかしげに発言してほしい。
さて、そこで、提案をしたい。
1 図書館と出版・書店業界の相互研修を
図書館員は、本を作る人、売る人が、一冊一冊を売りながら、どうにか生きているということが実感できていない。一方、出版界・書店界の人々は、複写の制限などについて、「どうして自由にコピーできないんだ」という利用者からの申し出に対してきちんと著作権について説明をするなどの鋭意丁寧な対応を、日夜、図書館の人々が行っているしんどい仕事に注意を全く払っていない。
その結果、出版人は、本に対するニーズ<今直ぐに雑誌の記事を手元に置きたいなど>と新しい展開<本の切り売りの必要性>の必要性に気が付かず、一方、図書館人は、面倒くさい人手によるコピーサービスがはやめて、セルフコピー機をおいて、簡単にコピーしてしまえというところさえもでてくる。反 対しているという人にとっても、あまり実感のない、問題としての優先順位が低い問題になっている。しかし、 インターネットの電子ネットワーク社会が情報のコアになる時代がこれから来るときに、つまり、複製と頒布、著者の生存と情報の再生産、情報の公共財性の拡大の問題が、重要な課題となることをこ理解できていないかもしれないが、非常に優先順位が高い問題なのだ。出版人、著者、図書館人、利用者にとってこれは全てに不毛である。
もともと、出版界は明治に博文館によるあちこちの大学の講義録(通信教育、いまでいうバーチャルユニバーシティ)を勝手に、著作権者の承諾無しに、集めたアンソロジーが、爆発的に売れたことによる出版ビジネスの立ち上がりにあること―これによって著作物が経済的な価値があることを社会に認識させた―を振り返るべきかもしれない。つまり、この逆が今おきているのだ。明治期にパッケージが、商品をつくったのと逆に、脱パッケージの商品化を考える必要がある。これは、図書館の無料の原則を一面、抵触することになる。図書館がライセンス処理を行い、手元にコピーを起きたい人には、著作権料を代理徴収することを必要となるからだ。しかし、これによって、優れたアンソロジーの場合、個々の論文がコピーされることで、著者に経済的なフィードバックが可能になるということになる。これは図書館が、知の公共財をつくる機関という意味では、杓子定規の無料主義よりも意味のあることであると思う。
2 関係団体の連絡・相談会を
文化庁が著作権についていろいろな研究会を開いたり、努力していることは認めるものの、どうして、実際の出版界や図書館や公民館の実務者あるいは協議団体の主体で、協議し、相互に課題をきちんと扱うにはどうしたらいいのかの点についての相互的な議論の場がないのか、これは行政に頼るのではなく、実務者で先に行うべきことではなかったか。これは出版界でいえば、書協、図書館界でいえば、日本図書館協会の問題ではないか。なぜ、行政依存なのか、行政とはパートナーシップを求めべきであるが、依存してしまうのはまずい。
3 新しいライセンス処理方法を
複数貸し出しという前提に複数ライセンスの考えを書籍にも導入すること。
2段階のやり方を
1 図書館価格を設定すること
これは1冊の本に買い手によって値段をかえるということである。これは、一人ライセンスとそれ以上の場合を変えるということであるが、再版の弾力的な運用と言うことになるだろう。
2 コピー機と連動したライセンス処理の方法を共同で開発すること
1と2は連動あるいは、それぞれでもいいかもしれない。
2については、NTTサイバーソリューション研究所と共同出願というかたちで、インデックスを全てのページに付けて、著作権機構にネットワークされたコピー機によって、自動的に処理するビジネスモデル特許をすでに特許庁に出している。これは、特許料によって儲けようということではなく、そういう仕組みが実現されなければ、出版も崩壊してしまうという危惧からの提案である。
しくみは、現在の柱の部分に2次元バーコードを刷り込み、そこに○○という本の△△という書き手の、■■という論文の何ページ目であるということ、著作権の処理は××でおこなう、ということを全て盛り込む。コピー機は、自動的にそのインデックスを読み込み、ネットワークで著作権処理機構に問い合わせ、その機関のライセンスの扱いと照合し、自動的にコピーを処理するというもの。
たとえば、ある本は、5年間はページコピーが50円で、5年を過ぎたら、20円。10年目以降からは、5円などと細かく設定することも可能になる。たとえば、品切れたあとは、2円とか細かく設定できることになる。
これに関連する複写とライセンス処理の提案→コンテンツ販売方法および装置(1.2MB)
この問題の根には、図書館界には、貸し出し中心主義的、利用者サービス主義と無料原則病があり、出版界には、公共性という感覚がなく、再販護持病による複数ライセンス価格などの考えることもできないと言う金縛りがあるのだろう。
最後に一言つけ加えれば、ひつじにとっては、本当は一番問題なのは、大学図書館でのコピーであるということをつけ加えておこう。この点で言うと、ライセンス処理をしない大学図書館と市町村図書館の蔵書の相互利用は、問題がある。この点で、「ずぼん」の以前の論文―今は手元にないので、見つかり次第、論文名を上げる―は大いに問題があることを述べておく。
これらの件は、まとめて、出版業界紙に書かせてもらえるように、依頼中である。
『日本の学校』の中の中内さんの文章と国会図書館の南さんからの手紙を紹介する。手抜きですいません。コメントはそれぞれの文章の頭につけています。本格的に論じます。待たれよ。
売ってやるの意味は、傲慢ではなくて、売らないといけいないという強い決意である。先日、青山ブックセンターのKさんが来てくださった時に、内容はいいと思いますが、ふらふらと本を取って買える値段ではないと申し上げた。多くの人々は、本の値段は、1600円から2000円台のはじめだと思っている。その本がどのように執筆されて、作られて、店頭に並ぶかなどということは考えないだろう。「相場」の根拠というのがどういうものなのか、ということは分からないが、軽い気持ちで普通の人が読もうと思った場合、3600円は高いと思うだろうと思ったのだ。読者は、本の未来、出版の未来について、それなりに考えている業界人と思っていたのだが。それでも、Kさんは、こういう本も並べないといけないので、並べてみたいと言ってくれた。
ところが、業界人であるある人からの電話、「値段が高いから、専門家が読者ですか?」。えーっ! あなたのような編集プロダクションをやっている人が、買わなくてどうするの?? 普通の人であればともかく、自分で会社を作ってまで、本を作るのを生業にしている人からそのような発言がでてくるとは思えなかった。
でも、そんな感覚で、どうして本を作ろうと思うのだろうか? 本など作ってもしかたがないのではないか? 読者がいて、理解できる人であれば、それなりの評価をしてくれて、買ってくれるだろうと信じていないで、仕事ができるのだろうか? 私は、特殊なのか? 私は、国文学の専門書を作ることから、編集者のキャリアをはじめた。数万円の高い本でも買ってくださる人が少なからずいて、それで本を作ることができた。こういう感覚は、非常に少数派なのだろう。
読者を信じることができないで、どうして本をつくることができるのだろうか? やはり、ここは、『文学者がつくられる』が、一年で売り切れて、きちんと売れることを実証するしかあるまい。そういう読者がいるのだということを証明してやる必要がある。(『読むということ』は、3年かかった。)
ということで、皆さん、書店さんで、『文学者はつくられる』をご注文ください。どうぞよろしくお願い申しあげます。現在、ジュンク堂とリブロ池袋に本は送っています。
土曜日でもあるし、30日でもあるし、街はずいぶんと静か。事務所も今日は一人なので、暖房がきかない。ひざにセーターをおいて、仕事をしている。今年も、いろいろなことがあったなあ。来年もいろいろなことがありそうである。
と同時に、仕事のやり方、ひつじのスタッフの人員をどうするか、などを検討し、解決しなければならないことが多すぎる。仕事の内容に入る前に、仕事を行う体制つくりが、そもそも問題が山積みである、ということだ。
4月以降本作りの仕事をDTPをいったんやめていたが、年末に大門先生の原稿を急遽事務所内でやることにしたが、やはり、言語学の細かい設定のあるものは、自分でやったほうがいいようだし、年間、組み代で数百万はかかるとすると人一人雇える訳で、事務所内に常勤スタッフがいた方が、出歩きやすいという点では、その方がいい。というものの、時間をかけても育たなかった場合は、ショックが多すぎるから、リスクが大きいということだ。
しかし、来年は、大学で非常勤をするという話もあり、ずっと提唱してきたビジネス図書館への実験も稼働しそうだし、投げ銭がらみのプロジェクトも動く気配があるし、著作権、テキスト流通のからみのワーキンググループを作るという話もあり、できれば、言語聴覚士などの新しいジャンルへも乗り出したいと思っているし、NPOと日本語を連携させるプロジェクトを進めたいし。きちんと本業の文法研究も研究書を出したいので、今年の数倍の忙しさになる模様だ。
となると優秀なスタッフがほしいところであるが、育てるとなるとまたまた手がかかる。スターウオーズではないが、弟子を育てるのにはリスクがある。敵を作る恐れもあり、そこまでいかなくても、無駄骨を折る可能性は高いということである。スタッフは、一人ではなくて、二人以上ほしいところ。経済的にはどうにかなるかもしれないが、子育て中では、なかなか手が回らないのではないだろうか。基本的には経験者ということになるのかもしれない。しかし、従来のこの業界に、興味を持ってくれる人は少ないだろう。地味な仕事でもついていけて、DTPやホームページにも興味があるような人はいないだろうか。営業もしたい。
来年は、21世紀でもあり、私が40になる年でもあり、大きな節目となるだろう。
今日は、専務といっしょに事務所で仕事。二人だとだいぶ寒さが違う。アルバイトの子たちに出してもらった来年の予定を見ながら、打ち合わせをする。来年は、事務処理の曜日を決めよう。金曜日は、重版と印税を処理する日。土曜日は、原稿催促の日、などと決める。いつも、土曜日に出てくれるアルバイトの子を使って、営業資料の整理。書店さんに往復葉書で、注文を打診するとか、もらった名刺の整理とか。
仕事を区分けして、アルバイトの子にそれぞれ担当してもらって、その仕事ではベテランになる。タックシールの打ち出し方とか、往復葉書の両面コピーのやり方とか、その仕事については、私や専務でなくてもできるようになってもらおう。特に指示をしなくても、できるようになってくれれば、仕事は進みやすくなるだろう。でもまあ、そのための最初の準備期間は大変だろう。このアイディアは、竹内利明さんが、インキュベーションを研究している大学院生を上手に仕事に使っているのを目の当たりにしたことから、思いついたもの。
昨日と今日、サイトをたまたま見ていたら、A-GIRLの伊藤淳子さんのところとアジールデザインの佐藤さんのところが目に付いた。伊藤さんのところはスタッフの数もだいぶ多いし、佐藤さんのところもそうだが、やっていることは似ているのではないか? ひつじを従来の出版社と考えないほうが、イメージが的確なような気がしてきた。伊藤さんのところは、様々な企画を提案し、いろいろな実証実験に参加して、未来を夢見る仕事をしているという。佐藤さんのところは、デザイン事務所ではあるが、媒体といろいろと実験して新しいものを作っている。出版社にはそういうところはないだろう。こっちに近いような気がするが、彼らにはまだまだかなり負けている。頑張る方向が見えてきたような気がする。デザイナーというものも、事務所を背負っている看板になるメインのボスがいて、スタッフはそれを手伝うアシスタント的であったり、サブであったりするようだ(そう、見える)。出版社の編集の場合、スタッフは独立しているように見えるが、ひつじの場合、従来の出版とは違ったことをたくさんやっているので、それぞれが独立してやるというよりも、私のサブという関係を一応明白にしておいた方が、しばらくはよいのではないかと思う。いろいろ考えているところだ。
さて、あと5時間を切った。今年もお世話になりました。ありがとう。
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