2025年2月27日(木)

こちらは、ひつじ書房が月に2回配信しています「ひつじメール通信」に書いたものです。房主よりをwebページにアップしますのは、半年ぶりになってしまっていることをお詫びします。その半年前のものは、書いたものを半年分リストにしたものでした。もう少し頻繁にアップするべきと思っています。私が考えていることももっと公開の場所で発信していった方がよいと考えています。研究者の方、教育者の方、それらの卵の方は、ひつじメール通信の購読(もちろん、無料)もできますので、そちらもご検討下さい。


『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』(石田喜美編)を集団で読もう

私の思い込みかもしれませんが、日本語教育や近代文学研究で、主体的に学習すること、個人で考えることが前提といいますか、最善とされているように感じます。この感じ方は、個人的な感覚で現状とずれているのかもしれません。SNSなどでは、個人を中心の価値観にした発言が多いと感じるゆえでもあるのですが、これも客観的な事実ではないかもしれません。日本語教育でいうと、弊社も後押ししたといえる学習者の自律性を重要視するオートノミーの議論がありまして、青木直子先生の議論は正当なものと思います。さらに学習者の学びが中心で教師は支援者であることを重要視するアドバイジングの本も出しています。

『学習者オートノミー--日本語教育と外国語教育の未来のために』(青木直子・中田賀之 編) <https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-89476-539-9.htm>(品切れです。)

『日本語学習アドバイジング--自律性を育むための学習支援』(木下直子・黒田史彦・トンプソン美恵子著)<https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1199-1.htm>

青木先生、木下先生を批判する意図はありません。文学研究でも、国語教育の側への文学研究者の批判の底には、文学作品はあくまで個人が読むもので教室でみんなで読むということについて、否定的な感覚があるように感じます。読みは個々それぞれのものであって、集団で読むということが想定されていないと思います。文学研究で読者論は一時期力を得ていたと思いますが、集団的読者論というのはあったのでしょうか。これも、私の誤った観測でそうではないと言われるかも知れません。勉強不足ということの批判はお受けします。オートノミーの議論もアドバイジングの議論も、日本語教育業界的に正しいか正しくないかという方向に議論がなりやすく、問題提起を受けて、さらに議論するということが起こりにくいように感じます。議論が上手でないというか、もっと議論しましょう。

今回の石田喜美先生の『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』のまえがきで、指摘している中教審の答申(第228号)「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」には個別最適な学び(学習は個人が個人のためにすることという意味と私は受け取っています)と協働的な学びということがタイトルにもいわれていますが、そのように協働的に学ぶということを重要視するあるいは並記しての議論は日本語教育にはほとんどないように思います。そんな中教審の答申についても、石田先生はそのように両方とも上げているが、実際には個別最適な学びの方に比重があると指摘しています(pp.2-3)。中教審の答申で触れているが、十分でないということですが、言語教育の場は、中教審の答申については関心がないのでしょうか。中教審というものがもともと文科省管轄の学校教育を対象としていて非日本語母語者への教育はそもそも抜けていたので仕方がないのでしょうか。

協働的な学びのことを集団での学びと言い換えますが、中教審の答申でも集団の学びについて言及はないわけではないということと思いますが、実際には集団の学びについては議論が少ないということがあるのではないでしょうか。日本語教育に戻しますと日本語教育では教師がのさばりすぎないことや教室での学びには制限があることはいわれますが、教師がいることによるプラスのことや教室で学ぶことの積極的な評価というのは、少ないように思います。当然のことなので言及されないのでしょうか。もちろん、教師絶対主義や教室への絶対的な依存は批判されるべきですが、教師絶対批判や教室全否定のようないいかたが、強すぎるように思います。もしかしたら、それは20世紀の時代での主張の印象が私に残っているのかもしれません。さらに先走っていうと生成AIが家庭教師のように学習に関わるようになる可能性が言われる中で、一人きりではない、あるいは教室という場所を共有することの学びを丁寧に位置づけないと過剰な生成AI依存を招きかねないと思います。

そんな中、石田先生に編者になってもらいまして、一冊の本を編んでいただいたわけですが、私の個人的な見解では、近年の教育についての議論の中で出色の編著になっていると思います。かつまた、言語教育および言語について考える方にも重要な本です。

いくつかの章について言及します。まず、第2章 集団での言葉の学びはいかに成立するのか--通信制高校の小論文授業におけるリソースの交渉(高岡佑希)について述べます。

この論文がすごいと思いますのは、教室の中でのオフィシャルなことばに加えてオフィシャルではない言葉に注目しているところです。オフィシャルではない言葉というのは、ひそひそ話や「おしゃべり」のことです。実際の授業のさまざまなあり方には、オフィシャルではない言葉が関わっていて、それによって、授業が行われ。学びも行われます。オフィシャルでない言葉は、一人きりで学ぶ際には基本ないものですから、集団ということで生まれる言葉といえます。オフィシャルではない言葉が使われるのは、教室であり、オフィシャルな場での学習だからでしょう。だからこのことは、この論文のテーマではないかもしれませんが、私の驚きとしては、授業だけでなく、クラスの運営や学級のあり方にも関わっているということです。授業にとどまらず、楽しい学校生活の実現や逆の場合だと教室でのいじめにも関わります。オフィシャルではない言語の使われ方が理解できなかったり、笑いを取るところで取れないと教室になじめないとかそういう問題にもつながります。クラスで人気者なれるかどうかは、その言語能力によるのではないでしょうか。その問題を扱った社会言語学の研究はあったでしょうか。さらにこの問題を地域や国家に及ぼすと共通語と呼ばれているものと地域言語、個人言語との関係、何が言語の主流派になるのかなどの言語政策の問題にも関わります。ここが先に述べた言語学や言語教育に関わるところです。そこまで、広げてしまうのはこの論文の著者の本意ではないかもしれませんが、実に面白いテーマを議論して下さっていると感じます。

第4章 集団で読むことはいかに成立するか--絵本の「読み聞かせ」の成立(吉永安里)について。

幼稚園や保育園などの義務教育より前の読みについての議論で、学校教育がはじまるとテキストはテキストとして自立して読むということが前提になってきます(とはいいながら、学校社会の中での価値判断があって、テキストを読んでいることになるので本当は自立といえないでしょう)が、そうでない場合に、子どもたちの生活とともに読むということが議論されています。文学研究の読みの研究であると社会背景的なものはあまり注目されず、作品として自立したものを読むことが当たり前になっていますが、そうではない読みが集団で成立していることについて議論しています。読み研究の土台を問い直していると思います。

第5章 個--集団の読みを改革する--文学の授業におけるクィアな読みの実践(吉沢夏音)について。

こちらは章タイトルのとおり、一人で読まないことによって、自分以外の人が同じように読んだり、違って読んだりすることに気が付くことによって、読みを深めるあるいは一人では読めなかった読み方の可能性に気が付くという集団で読むことによって見えてくるものについての論です。クィアな読みの実践の報告です、その実践をぜひ読んでいただきたいです。

第6章 読むことと書くことの集合的な学び--コミュニティをつくる・参加する(岡部大介)について。

ファンコミュニティの議論になっていまして、教室内の読みではなく、ファンとして横に同じ対象を推している人々同士の読み方、さらには書くことにまでつながっていくという議論です。読んで受容することに注目するだけでなく、読者の活動にも注目した議論です。(個人的には最近読んだ『迷路と死海--わが演劇』(寺山修司)の観客論、劇がつまらなければ、役者に代わって劇を面白くしてしまえという観客論を連想しました。)一人一人では孤立してしまう人間がファンダムという集合体を作っていくことでコミュニティを作っていくことができるのではないかという可能性について述べています。そのことはネットワーク化されているとはいえ、孤立してしまい、分断され、敵対しかねない現在の私たちのあり方に対しても仲間たちと読むことが希望を与えてくれるように思います。とともに、危険性もあるということでもあります。

第三部 ハイブリッドな主体、ハイブリッドな学び

ここまで集団で読むということを考えてきた上で、主体というものをハイブリッドということばで集団とまじわったあり方としてとらえかえす部になっています。

第7章 学校図書館において生じるリテラシー--探究学習におけるメディアと仲間の役割(新居池津子)について。

探究学習というのは今話題になっていたり、社会で実際に困惑されているようなことがらについて、考えようとすることが多いと思いますが、実際に社会に生きているわれわれが、一人で考えているとそのプロセスが孤独化しかねないと思いますが、学校図書館という場所で仲間と考える(そこには資料を読むということがある)ということの意味、第6章ともつながりますが、これからの社会にとって読むということをどう設計していくかということにも関わる議論になっていると思います。話しは少し飛びますが、10年前に言われていた「熟議民主主義」の議論につなげることができるかもしれません。熟議市民会議は、まさに集団で読んで考える実践であったと思います。今は、あまりもてはやされていないようですが、もう一度、集団的な読みの議論を元にして熟議民主主義についてもあらためて議論しても良いかもしれません。

このことは第9章「つながりの学習」が示す視点と集団の学び・集団の言葉の学び(宮澤優弥)にもまさにつながっていることだと思います。社会的に読む、社会的に学ぶということの議論だと思います。個人的な感想ですが、非日本語母語話者が日本社会に参加していく中で、集団でことばを学ぶということ(日本語母語話者も同様に)を丁寧に考えないといけないと思いました。さらにいうと日本語自体を作っていくことにもつながるでしょう。

第8章 ハイブリッドな集合体という視点(青山征彦)は、第三部のまとめ的な理論編、本書全体のまとめ的な議論になっていると思いました。教室とか地域とか会社とか国とかいろいろな集合体とわれわれは関わっているわけですが、そのまとまりについてどう関わっていくかということが大切なことだろうと思います。

全部をきちんと紹介できていませんし、紹介した章も上手に紹介できていないと思いますが、本書の提起はとても優れていて、議論は、簡単に解決されるわけではないですが、それこそ、集団的に仲間的に読んでいくことができるとよいのではないかと思います。本書は優れていると述べましたが、そのことは本書を読んだ方々が最終的に判断することと思います。ぜひ、賛同いただきたいです。

さらに、最初に述べましたが、ぜひ、日本語教育の方、近代文学研究者の方、言語学、言語教育学の方にも読んでいただきたいと思います。もちろん、国語教育の研究者の方々にも。


『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』へのリンクをはっておきます。

『集団で言葉を学ぶ/集団の言葉を学ぶ』(石田喜美編)

https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1250-9.htm

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執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



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