2024年の年始から8月までの房主の日誌


2024.1.24

○学術立国という構想はありえるのだろうか?

1月も半ばが過ぎまして、今年も24分の1が終わってしまいました。

昨年の末に、中国在住の研究者の方から、中国の学術成果の古典的な研究書の翻訳の打診をいただいています。中国の学術成果の海外向けの助成金があるということで、その応募のための相談ということです。手続きの際に、出版社としての公的な証明書の写しが必要ということで、法務局が出している登記簿の写しを提出しました。あくまで、法人の登記簿謄本の中に、出版事業を行うと書いてあるということで、出版社としての公的な証明書というのは、日本にはありません。とはいうものの、中国に対してだけではなく、Google Playの登録の時も使いましたので、証明書としてはきちんと役割を果たせるものであるということなのでしょう。中国の学術成果を世界に送り出すということは、政府としての方針なのか、中国の学術会議のようなところの方針なのか、分かりません。どういう動向なのか調べたいと思っています。

日本の政策として、学術的な存在をどうするのか、ということについて、議論はあったのでしょうか。ノーベル賞の日本国籍を持つ人の受賞者数が、減っているであるとか、そのようなことは議論としてもあったように思いますが、実際に学術的な世界をどうするのかについて議論されているということはないように思います。新聞でも論壇誌でもないのではないでしょうか。ネットでの議論もないように思います。

以前に平田オリザ氏が、『芸術立国論』という本を出していましたが、「学術立国論」のような議論はあったのか。『芸術立国論』は、集英社新書で、2001年に刊行された本です。中国では、「学術立国」とまでいかなくても、世界の中で学術的なあり方をどうするかというようなことが考えられていて、それで中国国内で中国語で出版、発表されているものも、中国語以外の言語に訳して世界に送り出そうという考えが、あるのではないかと思うのです。日本では、学術というものは、普遍的なものであるので、国というものを前面に出す必要がないということであったのかもしれません。アジア地域内の権力を目指すのではなく、世界でスタンダードと呼ばれているものに寄り添えばいいという考えもありえます。一方、それは世界のスタンダードといっても、欧米圏でのスタンダードなのでないかという考えもあり得ます。

中国としては、スタンダードを欧米に握られている状態から、脱却したいと思っているということかもしれません。それは、脱欧米ということになるのか、中華思想の表れとして、中国こそがスタンダードになるべきであるという考えなのか。中国が産業をはじめ、いろいろな局面で強くなっていって覇権を持っていくということは、予想のついたことかもしれません。そうなら、日本は、欧米に付くのか、中国に付くのか、そうでないとしたら、アジアにおける中堅的な社会として、うまくバランスをとっていくのか、という議論もあってよかったように思います。

私は、覇者であることを目指すことはないとしても、アジアにおける中堅的な社会として、うまくバランスをとっていくという方向を考えるのがよいのではないかと思います。それは政治的にでも、そうですし、学術の存在のあり方としてもそうだと思います。アジアの中での中堅的な学術立国の道を目指すということ。中国の学術的な発信はこれから強くなっていくでしょう。そのこととうまく、折り合いつつ、中国の属国としてではない道を探るのがよいのではないかと思います。研究、つまり学術的なコミュニティは、以前よりは小さくなるかもしれませんが、必須なものとして存続し続けるでしょう。そこには、学術出版というものもメンバーとしてあることでしょう。おそらく。中国の学術成果の古典的な研究書の翻訳の打診をいただいて、学術コミュニティがどのように存続することが望ましいのかを考えるという発想があることに思い当たりました。そういう発想はなかった。政策として学術コミュニティを存続させるということも、あるべきことであるように思いますが、これらのことを巡る議論は聞いたことがないと思います。議論よ起これということを思います。


2024.2.7

○書籍の装幀について

ひつじ書房は、書籍の装幀について、本の内容にあわせて様々なありかたを考えています。タイトルと著者名だけといってよいようなシンプルなものから、いろいろな図案や写真を組み合わせたもの、図案も具体的な明確なかたちのものを組み合わせたもの、模様が組み合わさっているもあります。シンプルなものとして、上製クロス装で箱に入った書籍があります。私は、このシンプルな品のある装幀が好きです。どのような内容なのかについては書名が語ります。

出版の内容として、文法であったり、音声であったり、言語ですと抽象的ともいえるような仕組みを議論することが多いですので、具体的で個別な意味をかならずしも持たないともいえるので、シンプルなストイックな装幀が美しいと思います。内容と関わりのない、離れた具体的なものを表紙に並べるというよりも選ばれたことばのタイトルが語るという装幀があると思います。ひつじ書房の場合は、研究叢書(言語編)が、そのような装幀になっています。外回りの表紙、箱だけでなく、本文についてもデザインがなされていて、文字組もストイックで美しいと思います。行数は多いのですが、行長(左右の行の長さ)が短くて、そのために研究書としては読む際の負担の少ない優しい版面(多くの場合、はんづらと読みます。1ページの中の本文のこと。はんめん、でも間違いではありません。)の研究叢書(言語編)は、本文の設計とクロスと箱は、白井敬尚さん(白井敬尚形成事務所)の装幀です。白井敬尚さんは、組版の美しさ、端正さで知られるデザイナーの方です。ずっと、デザインの雑誌、クリエイターのための世界のグラフィックデザイン誌「アイデア」で主幹を長くつとめた方です。

風格がある装幀を目指していますが、とともに、フレンドリーさ、親しみやすさを前面に出したいと思うこともあります。カラーにして、親しみやすいイラストを入れて、色調も暖色系にしてみます。寒色系でも明るい感じにします。フレンドリーさを出すのはよいのですが、フレンドリーな一般書風にしますと、一般的に思われている値段よりも高くなってしまうとギャップが生まれることがあります。2000部以上刊行できて、売れるのなら、比較的一般書的な値段にできるのですが、研究書は500部とか700部とかであることが多いですので、価格帯がずれてしまいます。

書籍の業界も、書店の収益率であるとかビジネスをなりたたせていくためには、値段をあげないとならないとずっと言われていまして、書店で働く人の待遇をよくするためにも値段を上げることが求められていますが、ここで申し上げたようなことで、なかなかできません。売れる部数は減ってきている中で、紙の値段もあがってコストも高騰していますし、製本業界も廃業する会社も多く、値上げが必須の状態ですが、なかなかできないところです。安価な方が良心的ということもいわれますが、出版業・書店業そのものがなりたたなくなってしまうとたいへんなことになると思います。大量生産の時代ではないということもできますが、印刷物は基本的に複製物ですから、限られた特権層から解き放って知識を普及する・共有するということが基本にありますから、「広く」読まれるということが、期待されているわけなので高価にするといっても容易にできるわけではありません。すみません、高くなってしまってもどうぞ必要なものはご購入をお願いします。

話しが斜めに行きましたが、手に取って読んでほしいのでフレンドリーさを出したいと思っても、安そうな印象を受けないように工夫する必要があってこれも一苦労です。フレンドリーさは必要ですが、研究書としての熱があり、ストイックさもあって、最終的には納得していただけるようにしたいと思っています。作り手の自己満足になってはいけないのです。もちろん、主張も重要な要素です。先にフレンドリーさ、親しみやすさということばを使いましたが、高踏ということではありませんが、アート的な方向もありますし、目を見張るであったり、驚かせる方向もあります。面白くて、驚かせる装幀ですと、「コーパスによる日本語史研究」のシリーズは、坂野公一(welle design)さんのデザインです。坂野さんは、近刊の書籍『流暢性と非流暢性』の装幀もやっていただいています。

ストイックになりすぎてもいけないですし、驚きも大事です。楽しさもとても大事です。装幀をどうするか、悩むことは多いですが、楽しいことでもあります。多くのデザイナーさんに助けられて、装幀は作られていきます。内容が、コーパスについてで、吹き出しがたたかっているようにも見える昨年、刊行した 『話題別コーパスが拓く日本語教育と日本語学』(中俣尚己編)の装幀は三好誠(ジャンボスペシャル)さんです。言語学と物語研究を橋渡しする『物語の言語学--語りに潜むことばの不思議』(甲田直美著)の装幀は大崎善治さんです。どうぞ新刊の画像はウェブサイトのトップに出していきます。刊行書籍の詳細ページでデザイナーさんの名前を書くようにしています。既刊もそうですが、この春の新刊の装幀もどうぞ楽しんで下さい。いろいろと悩みながら、よい装幀の書籍をお届けしたいと思っています。

紹介しましたデザイナーさんの装幀の書籍のWEBページ

『「関係」の呼称の言語学--日中対照研究からのアプローチ』 薛鳴著 https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1212-7.htm

『コーパスによる日本語史研究 近世編』 岡部嘉幸・橋本行洋・小木曽智信編 https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1134-2.htm

『流暢性と非流暢性』 定延利之・丸山岳彦・遠藤智子・舩橋瑞貴・林良子・モクタリ明子 編 https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1208-0.htm

『話題別コーパスが拓く日本語教育と日本語学』 中俣尚己編 https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1194-6.htm

『物語の言語学 語りに潜むことばの不思議』 甲田直美著 https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1202-8.htm


2024.2.21

○本の流通のことを話します。

先日、表現についての研究書を購入しようと思いまして、御茶の水にある八木書店に行ってきました。出版社は書店に書籍を入れる前に取次店という問屋さんに本を入れます。(書籍は、出版社(の倉庫)→取次→書店という流れです。)取次店に納入するということですが、納入する立場なので、他の出版社が取次店に納入する書籍を書店さんに届ける(納品する)時の値段で書籍を購入することができます。他社から刊行している学術書を出版社値段で購入することができるということです。これは、業界内の慣行ということです。書店さんや出版社以外の立場では、そういう卸売り価格では購入できないですし、八木書店のお店に入店しようとしても、一般の方はお断りされます。

今回、申し上げますのは、その値段のことではありません。ここで、言及している八木書店は、取次部ということになりまして、八木書店には古本などを販売している古書部と古典文学の影印本などを出版している出版部のことではなくて、取次部のことです。店内には、書店さんたちが仕入れるための新刊書籍が並んでいます。さまざまな出版社の本が並んでいます。

先日、行きました時に店内を眺めましたが、ひつじ書房の本は棚に数冊しかなくて、他の文学研究系や日本史研究系の出版社の場合、書籍が何冊も、棚の数もたくさんありました。八木書店は比較的専門書的な書籍を扱っている書店(古書店を含む)に書籍を卸している(流通している)ということが多いわけですが、言語研究系の書籍についてはあまり書店の店頭におかれることが少なく、文学研究や日本史研究の方が扱われる量が多いのでしょうか。日本史については、ジュンク堂などの棚を見ても、比較して取り扱いする面積は多いと感じますが、日本文学の研究書については、言語研究より、売れている数は少ないか、どっこいどっこいかと思っていましたが、文学研究書は売れていると認識を変えないといけないかも知れません。売れているからなのか、売り場があっても仕入れられていないのなら、広報・告知する書店についても、告知方法をもっと工夫しないといけないのかもしれません。他の出版社の方が書店からの注文が多いので、書籍を陳列する棚の面積が大きいということではないかということを気にしているのです。広報・営業的な方策に漏れがあるのではないか、どうなのか。

とはいえ、専門書の出版社としてはtwitter(X)への発信にしても、他の出版社と比べても劣っているとは思えないです。書店への告知は、扱ってくれている書店へのファックスやtwitter(X)になっていますが、広報手段のさらなる検討が必要になるかと思います。このところ、評判の悪いtwitter(X)ですが、ひつじ書房のフォローの数は先日、6400をこえました。学術出版社としては少なくはない数ではあると思います。(フォローして下さっている方に感謝します。ありがとうございます。)

さらに検討したいと思っていますが、八木書店がBOOK CELLARという書店と出版社をつなぐ場所(実際に問屋の機能はないですが、発注の連絡を繋ぐ機能を持っています。)が、八木書店へのつなぎ役を開始していました。BOOK CELLARは、書籍の広告代理店株式会社とうこう・あいが運営している「より自由な取引を書店と出版社を繋ぐ受発注Webシステムというものです。

BOOK CELLARと通して、八木書店に注文が入るということで、これまで八木書店を取次として使っていなかった中規模の書店や個人書店(場合によっては、大手取次との取引がない店もあるだろう)が、八木書店に注文を出しているということが予想されます。そういう視線で見てみましたら、幕張にある書店、本屋lighthouseから、『日本手話の歴史的研究』の注文が来ていましたことを発見しました。既刊ですと店頭に並べてある書籍から持って行かれることもあり、近刊でまだ出ていないので注文がこちらに来ていて、分かったということです。本屋lighthouseさんは、ひつじ書房のtwitter(X)アカウントをフォロして下さっていますので、twitter(X)の広報から、刊行を知ったのかも知れません。だとすると、twitter(X)は役に立っているということだと思います。あるいは、ひつじ書房の読者の方が、本屋lighthouseさんに注文して下さったという可能性もありますので、ご注文下さった方にも感謝申し上げたいと思います。とましたら、その方は、twitter(X)で知ったのか、あるいはこのメールマガジンかもしれないですね。

BOOK CELLARという新しい横断的な告知機能が有効になったということかもしれません。書籍の販売のルートとして、書店はまだまだ重要なルートです。どのように新刊などの刊行情報を伝えていけばいいのか、何かで全てが一気に解決ということではないと思います。学術書の刊行情報はなかなか伝えにくいですが、模索しながら、やっていくしかないでしょう。2月は、新刊の多い時期ですので、このメールマガジンの新刊についてもぜひご注目下さいましたら、幸いです。


2024.3.6

○電子教科書を使っていて、メモをする方法

年度末に近づいて、来学期用の教科書の採用の連絡をいただく時期になっています。私たちのような学術出版社は大学などでの採用によって経営を成り立たせているところもあります。まことにありがとうございます。とは申しながら、今回の「房主より」は、経営の話しではありません。電子教科書の使い方についての疑問の話しです。ご採用の中には紙ではない電子版の教科書の採用などもあります。

私が常々、疑問に思っているのは、教科書が電子版である場合に、タブレットで見るのか、ノートパソコンで見るのか、はたまた、スマホで見るのかということがあって、それに加えて、筆記用具はどうしているのでしょうか。教科書だけが電子で、画面で見て、メモや概要を書くのは、紙のノートなのでしょうか。

ノートパソコンを使っている場合であれば、マルチタスクの機能を使って、読む部分と書く部分を分けまして、書くために立ち上げているメモ帳のようなものを使っているのか。スマホだとシングルタスクなので、読むことと書くことを同時にすることはできないと思いますが、記憶力のよい若者は、切り替えながら授業を受けているのでしょうか。

どんなやり方をしているのでしょうか。やりかたのバリエーションを考えてみました。

A 教科書をパソコンで見て、記録は紙のノートに書いている
B 教科書をパソコンで見て、記録もパソコンでパソコン内に書いている
C 教科書をパソコンで見て、記録もパソコンでwebのアーカイブに書いている
D 教科書をタブレットで見て、記録は紙のノートに書いている
E 教科書をタブレットで見て、記録はタブレットに書いている
F 教科書をタブレットで見て、記録はタブレットでwebのアーカイブに書いている
G 教科書をスマホで見て、記録は紙のノートに書いている
H 教科書をスマホで見て、記録はスマホに書いている
I 教科書をスマホで見て、記録はスマホでwebのアーカイブに書いている
J 教科書をスマホで見て、黒板はスマホに写真に撮っている

どのように学生さんたちはしているのでしょうか。

よろしかったら、次のフォームに回答下さい。もし、電子教科書は使っていない場合も、使っていないとチェックを入れていただければと思います。

よろしくお願いします。


2024.3.21

○『クチナシと翁』と青き衣のものと広場

こまばアゴラ劇場という平田オリザ氏が主催する劇場が東京の駒場にあります。この劇場は、今年の5月に閉館することになっています。もともと、平田オリザ氏の劇団青年団が中心的に使う劇場でしたが、兵庫県豊岡市の江原湖畔劇場ができたこともあって、東京の駒場劇場を5月で閉鎖するということです。そこで3月の8日から17日まで劇場ホエイの新作『クチナシと翁』という芝居が閉鎖にともなう機会として上演されていました。私は、観に行ってきました。『クチナシと翁』の劇場ホエイの山田百次氏の作った芝居です。山田百次氏は津軽弁を使った芝居を上演することで知られていまして、ひつじ書房のウェブマガジンの『未草』に「方言で上演する芝居のこと」というタイトルで連載してもらっていたこともあります。

★方言で芝居をやること(https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/category/rensai/hougensibai/

今回の芝居は、私のイメージでは、私が観た中で、これまでに上演された次の作品達の系列にあると思います。( )は、山田氏の主催する劇団ホエイのウェブサイトに書かれていた紹介の文を引いています。

『麦とクシャミ』(大戦末期、洞爺湖のそばに突如生まれた昭和新山。それにより消滅した集落の話。天変地異と戦争に一挙に巻き込まれた市井の人びとの日常を描く。)

『郷愁の丘ロマントピア』

(財政破綻後の夕張市。 再建の道は険しく、この町から出ていく者はあとを絶たない。2014年、かつて2万人近くが暮らした大夕張の町はついにダムの底に沈んだ。いま、町を弔う。)第63回岸田國士戯曲賞最終候補ノミネート作品

今回の作品の紹介は劇団ホエイのウェブサイトによると次の通りです。

青森県のとある町。

市町村合併に反対し、現在は高齢化率が50%を超える自治体。  

学校区単位の運動会は廃止され、地区運動会と一体化された。

明日は来年廃止が決定した地域イベント「かかし祭り」が行われようとしている。

地域おこし協力隊など新たな移住者の受け入れに苦慮しながらも、

新旧町民による「まち」への問いかけが、思いもよらぬ展開へと発展する。

いずれも、町自体がどうにも上手くいっていないで、そこに住む人のあまりかっこのよくない葛藤が描かれています。彼らは、話しをしますが、どうにも絡み合っていないようです。語られるエピソードは、少し切ない感じのものでパッとするものはありません。『郷愁の丘ロマントピア』と今回の『クチナシと翁』には祖父の年金で生活する孫がでてきます。さらに、今回はその孫が最後に二階から青い服を来て、黄色い花(菊の花)の散らばる床に立ちまして、その時、「その者青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」というナウシカの文言が引用されますが、彼はこの事態を改善させません。作中では、この村には落ち武者伝説があって、その由来の再現だといわれて、ナウシカの文言に客席は盛り上がりますが、舞台の上は何も解決しません。

たいしたことのない普通の人が、それぞれのいろいろ上手くいかないことをかかえていて、話し合ったりしますが、コミュニケーションが取れているとも思えず、よい解決にならずに終わることがたんたんと進んで行きます。

この劇場はアゴラ劇場という名前で、アゴラはギリシャの広場のことです。平田オリザ氏は、かつて、ギリシャの民主制は、対話する哲学者と広場で自分ではない人を演じる演劇によってなりたっていたといっていました。アゴラということばにはそんな広場のイメージが付されています。そのことと山田百次氏の演劇は、どこか違っています。それなりの葛藤があって、それなりに格闘しますが、民主制どころか、町は維持できるのかたいへん危うい。対話すること、話し合うこと、他人を演じることは、重要な価値を持ちますが、それはそんなに上手くはいかないということのようです。平田オリザ氏は対話を重要視しますし、大事だということを否定しませんが、それが上手くいかない日常はあって、人は存在しつづけるということについて、実感できるのが山田百次氏の芝居だと感じました。たんたんと進んで行きますと述べましたが、上手くいかない人々に対して、同情しすぎず、寄り添いすぎない「いとおしみ」があるのを感じます。

人々が会話をして、市民になり、市民社会を作っていくということが、言語教育の目的ということもありますし、そのことは尊重するべきですが、それができないということも現実社会にはあるので、そういう上手くいっていないコミュニケーションを認めるということもあってもいいのではないか、ということと山田百次氏といっしょに芝居を作り、演じている彼らが、伝えているのではないか、と感じました。上手くいっていないコミュニケーションを認めるという点で、平田オリザ氏の次のコミュニケーション観を提案しているのではないか。言語は市民社会をつくる重要な存在ですが、それを目的にして、それが上手くいかないことがダメだと思いすぎない方がいいのではないかと思ったところです。平田オリザ氏も、さきほどのことをテーゼとして述べていましたが、劇の上ではそれは解決するというわけでもなく、山田百次氏の芝居と同じです。という点では、平田オリザを乗り越えたというよりも、不理解・非理解・無理解という上手くいかないという点を強く打ち出しているということかもしれません。ただ、くちなしの村も広場かとも思いますが、広場というものへのイメージは、だんぶん変わっていると思います。ただ、くりかえしになりますが、いとおしみがあるということだと思います。

劇団ホエイ

https://whey-theater.tumblr.com/


2024.4.3

○生成AIが翻訳を助けてくれること

ひつじ書房では、毎週、ランチタイムに勉強会を行っています。編集をする上で、知っておきたいことを勉強するのですが、編集の仕方に役に立つ書籍と編集の内容を知るための本を読んでいます。読んでいるというのは、英語の本を1段落ずつ訳しています。編集の仕方に役に立つ書籍は、校正・校閲や学術論文のフォーマットについての本で、これまでシカゴマニュアルやオックスフォードのNew Oxford Style Manual を読んできました。日本にはエディタースクールの『新編 出版編集技術』(上・下)という本がありますが、1997年に刊行されていて古い本です。これらはけっこう分厚くしっかりしている本ですが、残念ながら、学術書向けではなくて、一般書や教養書向けなので、学術書としては知りたいことが書かれていないことが多いのです。今は、Publication Manual of the American Psychological Association: The Official Guide to Apa Style 7版(以下 APAとする)を読んでいます。ちなみに内容についての本は現在、アリストテレスの『レトリック』の英語訳を読んでいます。弁論術について考えたいと思ったからです。

APAは現在、図表についての章(7章)に入っています。そこで表について説明した英語を訳していますが、column spannersということばが出てきました。訳したいのですが、普通に検索したりして調べるとcolumnもspannersも列という訳語になってしまいまして、どういう列なのかわかりません。spannerだけで検索しても工具のスパナーが出てくるだけです。こういう用語について辞書の検索は役に立たないのです。そこで、生成AIも聞いてみたら教えてくれるのではないかと思いました。マイクロソフトのbingに

「column heading」と「column spanners」の違いについて聞きましたら、

---------------

Column Heading (列見出し):

列見出しは、各列の内容を簡潔に示すラベルです。通常、表の最上部に表示され、各列のデータがどの項目に対応しているかを示します。

例えば、売上データの表で「日付」「商品名」「売上額」などの列見出しを持っています。これらは各列の内容を要約しています。

Column Spanners (列スパナー):

列スパナーは、複数の連続した列にまたがる見出しです。これは、特定のグループやカテゴリに属する列をまとめて示す役割を果たします。

例えば、売上データの表で「2019年」「2020年」「2021年」の列スパナーを持っています。これらは年ごとの売上データをまとめて表示します。

---------------

と答えてくれましたが、spannersの意味は分かりません。

続けて、スパナーの意味が分かるように日本語にしてほしいとお願いしますと

---------------

申し訳ありません、誤解が生じました。**「列スパナー」の「スパナー」を日本語に訳すと、「列の結合部」または「列の結合要素」**となります。これは、複数の連続した列をグループ化して示す見出しのことを指します。

---------------

やっと意味が分かりました。(すでに、最初の回答で「複数の連続した列にまたがる見出し」といっていてくれていたのですが)

単純な辞書検索で分からないことを焦点を当てる部分を変えて問いを繰り返すことで、明示的に分かるというのはなかなか凄いことです。chat型の質問の仕方の有用性といえるのではないでしょうか。

そうして意味が分かった上で、リーダーズ英和辞典を引くとspannerは工具のスパナーの意味と指で幅を図る人の意味の単語(span・ner)があることが分かり、結合要素という言い方はこちらから来ていて、spanという動詞から生まれているだろうということも分かりました。工具のスパナーとは発音も違います。元は同じspanから来ているのでしょうけれど。

単純な検索だと「列」ということばで返されてしまうことが、対話式だとどう違うのかが分かるということです。これはなかなかつかえると思います。英語の出版マニュアル本を頭から読んでいるのは、索引からではひけないからです。索引の項目は、その項目名が何を意味するのかを知っていないとつかえません。でも、上手くことばで質問することができさえすれば、生成AIに教えてもらうことができるということなので、マニュアル本の読み方も変えられるかもしれないです。知識の検索の仕方自体が変わっていくのでしょうか。また、マニュアル本の作り方も変わっていくかもしれないです。


2024.4.17

○楓の花

紅葉というと秋に赤く色に染まる葉を思い浮かべます。昨年の春、知人とやっております連句の会で春の季語として「紅葉の花」ということばを入れた句をよんだ方がいました。紅葉は花を咲かせて、それが季語(晩春)にもなっているくらい、季節の中で花をつけるのが、印象的なのでしょうが、そもそも、紅葉が花を咲かせることがあるということからして、全く認識できていないので、いったい、どんな花なんだろうか、と不思議に思いました。昨年の4月半ば過ぎであったと思いますが、紅葉の花と検索すると楓の花ともいうということでした。紅葉ということばが秋のことばという思い込みがあるので、個人的には楓の花の方がいいやすいと感じます。紅葉の花の方が、紅葉と花がぶつかって、連句で花というと桜のことなので、それはそれで面白いともいえますが、楓の花といいましょう。楓の花で検索すると箏曲・地歌の曲に楓の花という曲があります。明治に入ってからの曲で、地歌らしい、たんたんとした真面目な曲です。季語としては晩春ですけれど、地歌の世界では初夏の曲になっているようです。昨年のそのころ、すでに花は散っていました。楓の枝を見るとブーメランのような種を枝に付けている樹があって、一方、種が見えない楓の樹もあって、楓には雄花雌花があって、種をつけない樹もあるのだろうと思いました。

それで、種をつける樹を覚えておいて、翌年の春になって、桜が咲くころになったら、種にならないうちに楓の花をつけるであろうと予測される枝を見ようと決めていました。桜が咲きそうになったころから、気を付けてみるようにしていました。今年は、桜は遅かったわけですが、4月になってからずっと見続けているとある時、楓の枝の葉の下に赤いつぼみなのか小さな丸いものがたくさんぶら下がっているのが見えました。サクランボみたいに小さくて細い枝がついてその先に丸い赤い球のようなものがついているのです。サクランボよりもずっと小さいです。たくさんある中には丸い玉(つぼみでしょうか)が裂けて、薄緑色の枝の先のようなものが突き出しているのもありました。そうして、何日か経つと丸い玉が裂けているものが多くなって、赤い部分が開いて、中から複数の小さくて細い枝のようなもの先がでているようになりました。花という感じです。小さくて可愛い花です。私は、目が色の認識が苦手ということがあって、その赤い玉の色味が茶色い赤に見えるのですが、家人によるともっと鮮やかな赤に見えるとのことです。新緑の楓の葉の下に沢山の赤い小さな花がついているということで、かなり鮮やかに見えるはずです。残念ながら、私はそれを実感することができないのですが。

楓の樹はあちこち近くにあります。そんな身近な樹の枝に花をつけているというのを知るというのも面白いものです。これから、少しすると今年も種をつけるでしょう。楓の種は、小さいブーメランのような、翅のような、かわいい面白いかたちでそれも楽しみです。


2024.5.8

○非流暢性とこれからの規範

今年の春に定延利之・丸山岳彦・遠藤智子・舩橋瑞貴・林良子・モクタリ明子編『流暢性と非流暢性』を刊行しました。

非流暢性ということに注目するというのはとても面白いと思います。言語教育、言語研究で、流暢な話し方というものが、理想化されることが多いと思います。流暢でなければ、流暢に話しなさいと教育されるということが多いと思います。

ですが、日本語に関していっても、みんながみんな日本語を流暢に話しているかというと、そんなにスムーズに流暢に話しているわけではないと思います。日本で育った日本語話者であっても、そうですし、日本で育ったといっても、非標準語の地域で育っていれば、標準語エリアの人からすれば、流暢ではないと思われることもあるでしょう。やたら、声の大きい人、声の小さい人、つっかえることがある人、実際にはいろいろだと思います。

これからの時代に、日本語を教える際にどういう日本語を教えるのがよいのか、その目標はどういうふうに考えるのがよいのか...シンプルな純粋で美しい、理想的な規範というのを設定しないほうがいいのではないか。しかしまた、規範があるべきではないという考えがよいのか。そういうことを議論するためにも、非流暢であること、流暢と非流暢をめぐって考えること、非流暢性という考えを考えるというのは重要なのではないかと思います。新しい日本語教師の登録制度が出来るなか、言語の規範というものを見つめ直す時になっていると思います。

近刊の遠藤織枝先生の『やさしい日本語の時代に、やさしい介護のことばを』は、これまで使われてきた介護用語のことば遣いの難しさを考える書籍ですし、『これからの言語学---ダイナミックな視点から言語の本質に迫る統語論』(ジム・ミラー 著 岸本秀樹 監訳 吉田悦子・久屋孝夫・三浦香織・久屋愛実 訳)は、これまでの統語論研究で使われてきた言語コーパスの範囲を広げて、ダイナミックな視点から、規範を問い直します。これからの言語学ということで、言語学自体を問い直します。原著は、A Critical Introduction to Syntax というタイトルです。片岡邦好先生の『メディア談話へのまなざし---クロスモーダル分析の試み』は、書記言語、音声言語、パラ音声、身体表象などを統合的に分析対象とすることを目指していて、従来あまり扱われてこなかったメディアでの言語を扱って、これも従来の言語研究よりも広い視点から考え直すものです。

これらは、実は私が担当しておりまして、5月中の刊行の予定です。


2024.5.22

○学会シーズンになりますとほとんどいつも同じことを述べていると思います。少し違うとしたら、交通費の高騰くらいでしょう。まあ、それでも読んでみて下さい。

5月になって学会がはじまって、地方への出張へもこれから行くことになります。飛行機代やホテル代も、ずいぶんと高くなって、経費が高騰しているので、どの学会に行くかはかなり慎重に選ぶようになっています。また、学会の開催の日程が重なりますと担当を分けての参加になります。出張費を考えると少人数になって、一人で行くことになります。出張でもひつじ書房にとって複数人数いけるのは日本語学会、言語学会、社会言語科学会、日本語教育学会くらいでしょう。

学術書の出版社にとって学会に行きますことは、店を出して、刊行している書籍を紹介するとても重要な機会です。学術書は町中の書店には並びにくいですので、実際の書籍を見ていただくとても貴重な機会です。できるだけ、ネット上でも情報が届くように努力していますが、実際のものを見ることには叶わないと思います。何か、具体的にどれかを購入されなくても、それまで研究をすすめて、そうして本になった本を見ることで、他の方の研究活動を知ることができます。研究活動の動きを知ることができるのもひとつの重要な価値でしょう。学術的な潮流というものを知る機会にもなっていると思われます。学会にきて本を売ることは、出版社の側の都合と思われるかもしれませんが、その場で書籍が売れるということは、研究書を執筆される方にとっても、研究が広まるということであり、売れてくれることによって、研究書の出版をしやすくするということでもありますので、著者になる方にとっても重要な機会だと思います。売れてくれれば、どんどん研究書を出そうとより積極的になることができるので、その学会の研究活動も盛んになります。出版社にとってだけでなく、著者である研究者の方にとって、学会という業界にとっても利益のあることだと思います。

また、学会の展示場所だけでなく、懇親会に出るということも、新しい研究者の方と話したり、知り合う重要な機会でもあります。学会によっては、懇親会の規模が小さくて、開催前に満員になってしまうことも最近あり(コロナ以前はそういうことはあまりなかった)、たいへん、残念です。新しい人との出会いの場でもあるわけなので、なるべくオープンで出会いの機会は広くとってもらいたいものです。

ぜひ、展示してある書籍を見に店頭に寄っていただきたいものです。眺めるだけでもページをめくるだけでも、それでも新しい発見があると思います。そうして、新しい方との新しい出会いのあることを祈っています。近いうちにあるいは少し先に本をまとめたいとか、思っていらっしゃるのなら、特に特別なアポイントメントが必要ということのない学会でお店に寄っていただくのはいろいろと役に立つことだと思います。買わなくても話し掛けてみて下さい。

私は、全国大学国語教育学会に鹿児島に行きますが、ひつじ書房を作る前の時代に、国語学会が鹿児島大学で開催された時にはじめていきました。桜楓社にいた時代ですが、その時は、桜島が噴火していまして、大学の建物の間の通路に展示していた書籍の上に火山灰が積もったことを覚えています。それに美味しい焼き鳥屋に行ったこととか。

全国大学国語教育学会に出展するのは、ひつじ書房一社でしょうか。昨年の秋の長野の時は、一社だけでした。二社であることを願っています。出版社同士の交流も、出版社にとっては重要です。ひつじ書房だけであるのなら、それは、貴重な出展ということになるでしょう。

みなさま、学会でお会いしましょう。よろしくお願いします。


2024.6.5

〇日本語学会に出展しました。

日本語学会に出展しました。西武多摩川線多磨駅から歩いて7分のところにある東京外国語大学で開催されました。東京外国語大学の研究棟の1階で、建物の1階が一本道の通路になっていて、その道の両側に出版社がブースを出しました。そのちょっと長い道の真ん中が、出展場所から外されていて、両端に出展するかたちでした。ひつじ書房は机を2卓使わせてもらいまして、広めの場所に展示していました。ほぼ450冊の書籍を持っていきました。少しスペースが足りずに、書籍もタテに並べるだけでなく、上の段と下の段のあいだに横に並べました。さらに持っていった段ボール箱を3段に積んで、その上の平面に書籍を並べました。横置きにすると古本屋さんの店先の値段均一コーナーみたいな印象を与えるのであまり好ましくないのですが、仕方がなかったです。

次の本が売れていたと思います。

『コーパスによる日本語史研究 近世編』(岡部嘉幸・橋本行洋・小木曽智信編)

『物語の言語学 語りに潜むことばの不思議』(甲田直美著)

『現代日本語の逸脱的な造語法「文の包摂」の研究』(泉大輔著)

『日本語助詞「を」の研究』(佐伯暁子著)

『日本語変異論の現在』(大木一夫・甲田直美編)

『類型論から見た「語」の本質』(沈力編)

『やさしい日本語の時代に、やさしい介護のことばを』(遠藤織枝著)反応がないのではないかと恐れていましたが、表紙の絵が優しくてキュートなのでか、手にとって下さる方が多くてよかったです。

『流暢性と非流暢性』(定延利之・丸山岳彦・遠藤智子・舩橋瑞貴・林良子・モクタリ明子編)

『話題別コーパスが拓く日本語教育と日本語学』(中俣尚己編)

『型から学ぶ日本語練習帳 10代のはじめてのレポート・プレゼン・実用文書のために』(要弥由美著)持っていった分が完売しました。表紙が目をひくということと、アカデミックライティングよりも実用文に焦点を当てた表現法の本がこれまであまりなかったからでしょうか。

『BLと中国 耽美(Danmei)をめぐる社会情勢と魅力』(周密著)内容は言語系ではありませんが、内容に興味がある方が多かったということでしょうか。あるいは本人ではなく、教えている人が、中国からの留学生が多い、学生が多いということで買われていました。

『んきゃーんじゅくカルタ(宮古島の昔のことわざカルタ)』(藤田ラウンド幸世編)が2個売れました。カルタが売れるのは珍しいです。東京外国語大学で開催したからでしょうか。

対面の学会の場合、対面での販売ができますが、人の流れというのも貴重で重要な情報です。(情報といういいかたをしますが人間をモノあつかいしているわけではないので、お許し下さい。)どういう本に目を留めて下さり、手に取り、そして買って下さるのか、買われる時の一言も本を作っている側には貴重です。動きがある本はよりこころにとまります。動きを作り出すということも書籍を出す際の意義だと思っています。

コロナ禍の時に学生であった方々は、まだ、対面での書籍展示になれていないところはあるように感じました。書籍展示が重要な情報源であるということを上手く伝えていきたいと思いました。

学会に合わせた打ち合わせもありまして、新しい企画も動かしはじめました。日本語学会は秋は対面ではないので、対面での会議はできません。春に企画会議をもっと立てて臨むべきであったのではないかと反省しました。

追記

私も担当しました日本語教材の紹介をします。

『日本語 巡り合い 1』

佐々木瑞枝監修 『巡り合い』編集委員会執筆

B5判並製カバー装 定価3,000円+税

188頁 別冊付き

ISBN978-4-8234-1216-5

☆表紙画像へのリンク

https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/img/9784823412165.jpg

☆本の詳細の説明へのリンク

https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1216-5.htm

マンガもふんだん、楽しく、学びたくなるテキスト

日本の高等教育機関に進学することを想定して、初級レベルから、学生生活を題材として進んで行きます。実際の学生生活や日常的な生活を取り上げ、そこで重要な言語生活を教材にしていますので、進学を目的に日本語を学ぶ外国からの生徒・学生に適しています。また、会話文は若い人が興味を持ちやすいマンガとセリフの音声で構成されているので、自宅で予習し、授業で(アクティブ・ラーニングを取り入れながら)学ぶというように自宅学習を「復習」から「予習」へと「反転」させた「反転授業」の方法で学びを行うこともできます。

本書の記述は、決まり切った文法を上から教え込むという形式ではなく、自然に重要な文法、言語活動を学ぶことができるように工夫されています。同梱されている「別冊 文法と表現」は、教える方の授業のスタイルによって、言語活動・文法と表現を学ぶ際に効果的に活用できます。

本書は、会話文の場面をマンガで示し、二次元コードによって気軽に会話の音声を聞くことができ、マンガという視覚表現と音声という聴覚表現に接することによって、学習者はいつでも、世界のどこでも、楽しく、自発的に予習することができます。1巻は初級レベルで、本文の内容は、大学入学から夏までの大学生の生活が描かれます。

★音源はネットで提供(初級1 JLPT N5〜N4、CEFR A1〜A2対応)

本書の使用を検討される方に採用見本をお送りします。 詳細はこちら<https://www.hituzi.co.jp/saiyou/>

(日本語学習教材はページの中ほどにあります。)


2024.6.20

〇創立の日

昨日は6月19日でしたので、ひつじ書房の創立34周年の日でした。私たちは、仕事を始めたのを創業、会社組織にしたのを創立と言っています。一般的にもこのようにいうようです。最初は有限会社として会社を立ち上げました。創立は私の住んでいた埼玉県の春日部市で行いました。手続きはなかなか煩雑で、市内の公証人役場にいって、書類を提出して申請し、提出書類を確認してもらい認証を受け、出資金を入金して、法務局に行って、書類を提出しました。司法書士にやってもらった方が楽だったと思いますが、お金を掛けたくないということと、最初なので何でも自分でやってみようと思い、自力で行いました。(公証人役場という組織がどうして必要なのか、法務局があるのだから、そこまでやればいいのではないかと思いました。政府の機関とは独立した機関が必要という何らかの理由があるのでしょうが、よく分かりません。)1990年6月のことです。それから、34年たって、現在は35年目に入っていることになります。

ひつじ書房を作りました時は、それまでは研究の中心は、歴史的な日本語の研究で、国語学と呼ばれていました。かつ国文学研究とも関わりの深かった時代でした。そこから、言語学や日本語教育と関連の強い、現代語を中心とする今では、日本語学と呼ばれるジャンルが立ち上がりつつある時代でした。文学研究から独立して、新しい言語研究が立ち上がる時期でした。その立ち上がりにも出版社を立ち上げることで貢献できたのではないかと思います。

ひつじ書房も34年たっていますので、多くの方には、大学生になった時にはすでに存在していた出版社という認識だろうかと思います。現在ある日本語学という研究ジャンルの中で一定の位置を占めていることを当然と思われるでしょうが、ニューウェーブであった時期も当然ながらあるということです。他の出版社に比べれば、新参者だと思います。がんばって切り開いてきたという気持ちがあります。

今また、節目の時期になってきているのではないかと思います。あり方が変わってきているようにも思います。ということを考えながら、34周年ということを思っています。言語研究のあり方、文学研究との関わりや言語教育との関わりについても、次の新しい考えが重要なのではないかと思います。来年の35周年は何かやろうかやるまいか、やるなら、今年の秋くらいまでにプランを立てる必要があります。まじめに考えたいと思っています。


2024.7.3

〇日本言語学会に出展しました。

三鷹の国際基督教大学で開催されました日本言語学会にひつじ書房は書籍展示をしました。出展した出展社は、ひつじ書房を含めて9社でした。他の社は1ブース分でしたが、弊社は冊数が多いので、2ブース分の机を使いました。書籍を平面に置く平積みだけではなく、タテに立てて並べて、背を見せる方法での展示もしていましたので、冊数的には400冊に近い冊数でした。A5サイズの本を底に4冊並べることのできる段ボール箱で11箱です。多いです。ひつじ書房は、何といっても学術書籍を中心に出版をしていますので、個々の書籍を展示して、売っていくことが重要なことなのです。毎年、一般書的な書籍や教科書も入れまして、毎年、だいたい50冊を越える冊数の書籍を刊行しています。出展者によっては、辞書が中心であったり、教材・教科書がメインの社もあります。そのようなところは、研究書の出版が少ないあるいは中心ではないということもありますので、学会で展示する冊数も少なくなります。研究書の出版が中心の方が、偉くて、辞書や教科書が中心の方が劣っているとか、あるいはその逆とか、価値判断としていうのではなく、傾向性の違いがあるということを申しています。

学術書の書籍中心ですとそのことによるやるべきしごとがあります。出版の企画を立てないといけないですし、そのために企画を立てられる人(書籍の著者となる人)を見つけないといけないことになります。見つけ続けていかないと継続しては出版ができないことになります。見つけて、本を出すことでしごとがなりたちますので、やりがいのある労働ということになります。ひつじ書房の編集部には辞書部も教科書部もありませんので、編集者は、もっぱらそのために働いているということがいえると思います。結果として、そのことによって、多くの書籍を刊行できているということです。

言語学会では、今回、言語学の全般に関わると思われるような内容の個別言語の研究(日本語、英語以外ということ)の書籍がありませんでしたので、お客さんを引き寄せる力が弱かったかもしれません。個別言語の研究ではないですが、『これからの言語学』が、従来の原理中心の言語学への批判と記述言語学自体への批判を持っている広いテーマの書籍でしたが、広報の仕方が弱かったことがありまして、引き寄せることができませんでした。未発の最後のページに掲載して、告知はしていたのですが、告知が足りなかったということだと思います。どなたかに文章を書いていただいて、帯を付けるというようなことをしてもよかったのかもしれません。これからも広報につとめます。ウォライタ語の本が1冊売れたり(喝采を叫びました)、なかなか貴重な本が売れるということはありました。この春に出しました『日本手話の歴史的研究 系統関係にある台湾手話、韓国手話の数詞、親族表現との比較から』も売れました。新刊については日本語学のものが多かったということがあります。日本語も言語であり、日本語学の研究書も言語学の研究書ということができますが、日本語の中の議論と思わせることが強かったのかと思います。その反省から思いますのは、日本語学のテーマを扱ったものであっても、言語研究一般に関わるような普遍的なテーマにも触れるようにすることを心掛けることを考えてもいいのかも知れません。『現代日本語の逸脱的な造語法「文の包摂」の研究』は、日本語学会に比べると言語学会では反応が薄かったです。文というもの、節というもの、連体節というものを考える時に日本語に限らず重要な内容ですが、そのことをさらに訴える工夫が必要だったと思います。

日本語の研究、英語の研究でも、個別言語の研究でも、もう少し、横断的、普遍的な関連があることを分かりやすく伝えるような工夫があった方がいいのだと思います。そうして、今回、ポスター発表を覗きました。かなり、盛況であったと思います。お互いに言語的な特徴、性質を聞いたり、議論できて、盛り上がったと思いますが、新しい著者の企画を探すという立場からすると個別言語研究だけでは読者は足りないので、横断的、普遍的な意味付け、あるいは学史的な意味や言語学の枠組みをどう問い直しているのかを発表に入れてもらえるとその研究の意義が分かってよいと思いました。ポスター発表は、専門家が、実際に調べて、研究したことをオープンにするというのが趣旨で、その研究の意義を伝えるものではない、という考えもあるのかもしれないですが、仮説でもいいので意義を言ってもらった方が分かりやすいと思いました。より大きな枠組みの中でいえることや学史的な文脈でいえることを、伝えるということをもっと考えた方が編集者には分かりやすいです。ポスター発表が博士課程での発表が多いことを考えると面白く伝えるということがもう少し指導されていてもよいように思いました。学史的にどういう意味があるのかを伝えることを指導してもいいのではないかと思います。(結論を安易に先走って立てないように、学史を先に持ってこないようにという指導があるのでしょうか。エポック的な研究なら、画期的ですといってほしいです。)あるいは、誰か私たちの知り合いの研究者の方に、この研究の意義は何であるのか、本人が意図していないかもしれないそういう面を解説してもらうようにするべきなのかもしれません。

上にも述べましたようにひつじ書房は、学術書の出版に大きな比重をおいた出版社ですので、立ち話のためでもいいので、展示場所に来ていただけるとうれしいですし、話しがしやすいようにさらに工夫が大事なのではないかと思いました。

以下は、学会の際に展示していた書籍

1分4秒あります。

https://twitter.com/i/status/1806876626451628035


2024.7.17

〇落語の語り方の変化

知人と寄席に行くことがたまにありまして、コロナ禍の前は年に何度か友人たちを誘って行っていました。寄席に行くとともに、着物を着てみんなで行こうというそういう会でした。コロナ禍が明けたということで、久しぶりに催して着物を着て行ってきました。

この春、12年ぶりの抜擢真打ちということで、三遊亭わん丈さんと林屋つる子さんの二人が真打ちになったのです。ご存じと思いますが、落語家には出世の道筋があって、最初は前座という身分で、数年すると二つ目という階級になって、それから十年ちょっとたつと真打ちになります。真打ちになると一人前という扱いになって、寄席の最後にでるトリという役目を担うことが出来ます。主任と書いて、トリというのですから、その興行はその人の名前で人を呼ぶということでたいへんなものです。トリをとれる真打ちというのが、凄いのですが、今回は抜擢真打ちということで、先に入門した先輩方の順番をとばして、真打ちになるということです。林家つる子さんは12人抜き、三遊亭わん丈さんは、16人抜きということです。私は、個人的にわん丈さんの師匠であった円丈のことが好きでして、わん丈さんは、円丈が2021年におなくなりになって兄弟子である三遊亭天どんが師匠になっています。新作にたけた一門ということになっています。

落語の話しをしたいということではなくて、語り方のことを話したいと思っています。そんな機会があって、林家つる子さんの話しを聞いたのですが、私が聞いたのは「井戸の茶碗」という話しで、(すみません、以下、ネタバレあり)くず屋さんがある浪人のうちから仏像を買って、それをよその若い武士に買ってもらったところ、その仏像を磨くとその中から50両小判が出てきて、その武士がその50両は買ったわけではないから、その浪人にくず屋さんが返してくれといわれて、持って行くが、自分の知らないことだと浪人は受け取らずで、行ったり来たりで困ったくず屋さん(正直者で清兵衛という名前)が大家さんに頼んで仲裁に入ってもらい、武士(高木佐久左衛門氏)と浪人(千代田卜斎(ちよだぼくさい)氏)で20両、清兵衛さんは10両で手をうとうというが、浪人は受け取るのを納得せず、手元にあった茶碗を渡して、その代として20両受け取ることにします。ここで一件落着のはずですが、その先があります。その武士の殿様が、面白いというのでその部下の話を聞いて、その茶碗を見せてもらうと名器と分かり、300両で譲ってほしいという。高木氏は、その茶碗が300両になったので、その半分を浪人に渡すという。浪人はそれではただ受け取るわけにはいかないといって、最初にくず屋さんをうちに導いたその浪人の娘をその高木氏に婚礼させることにして、その支度金として受け取ろうといって、くず屋さんが、高木氏に報告に行って、その支度金として渡すということでよいでしょうかといって、高木氏も納得するとくず屋さんが「娘さんはそまつなものを着ているが磨くとすばらしい娘さんです」というと「磨くのはよしておこう、また、小判が出ると困るから」というオチになります。落語として頑固者のやり取りと展開が面白く、最後のオチにいくわけですが、その娘はそういう話しの流れですと、モノあつかいされている、お金のやり取りの中で話しの都合で勝手に本人の意志とは関係なく扱われているという気持ちに現代人としてはどうしてもなります。つる子さんは、お金を行ったり来たりする中で、娘さんのことばを入れます。相手の武士は、自分の父に似た頑固者で、好ましいというようなことばを入れています。これまでの「井戸の茶碗」にはそういうセリフはたぶんなかったのではないでしょうか。好ましいとまでいったかどうかは分からないのですが、演じる中で、そういうニュアンスの話し方をされたと思います。そのことで、最後のところも、本人の気持ちもあって、輿入れするという判断があったという話しになっていきます。つる子さんは、この話しに限らず、いままで心がことばとして現れなかった登場人物の自分の気持ちを表すという展開にしていて、「紺屋高尾」という落語では、話しの中心人物の男性が高尾に恋するバージョンと恋されて、高尾が自分から結婚することを選ぶというバージョンを作っていると聞いています。まだ、聞く機会がないので聞きに行きたいと思っています。ただ、今まで省かれていた、語られなかった話しを加えることになるので時間のあるトリのような機会でないと難しいかもしれません。トリをとるときか独演会のような場所でないと聞けないかも知れません。

私は、語り方のことを話すと申していたわけですが、話しのコマとして登場していた人物に単なるコマではなく、きちんとした存在を持たせて話しをするというのは、かなり画期的なことだと思います。もしかしたら、登場人物、主役ではない登場人物のキャラクターの民主化、主体化といえるかもしれません。話しの展開が面白いというだけでは、客が面白がれなくなってきているということでもあるのだろうと思います。登場人物の気持ちに納得できて、笑えるという現代。語り物史、演劇史的にいろいろと考えてしまうのですが、叙事詩的な語り物から、登場人物の葛藤する演劇に変わり、しかし、さらには不条理演劇というのもあっての現代ですから、登場人物のキャラクターの民主化、主体化といってそのことを喜ぶのは、単純的な観測になってしまうかもしれません。落語の語りの近代化、といってしまうと単純すぎるようにも思います。

しかし、また、語り方というものは、純粋で合理的で、偽物や雑なものが入り込まなければ、伝わる、リアルに感じる、さらには説得力があるというものでもない、とても複雑で簡単には言い切ることができないものであるというように思います。これは政治的な主張もそうですし、学術的なコミュニケーションでもそうです。納得できる論理の構造やコンテキストもあります。落語でいうとパフォーマンス的なものであって、あればあるほど、容易な説明可能性を許さないものであるのだろうと思います。話しが飛躍しますが、都知事選でのポスター掲示も、自分が都知事として適任であるということを説得するスペースであったと思いますが、その機能はどこに行ったのか。コミュニケーション不全と他人ごと的にいうこともできますが、その機能はそもそもあったのか。磨いても仕方がない、でてくるのはくずばかりだからといってしまうことはできるのか。そうではないといっても、古びた仏像の中に小判が眠っていることを期待するということでは仕方がない。

> 落語というジャンルの語りのスタイルを変えているつる子さんを注目したいと思うところです。説明ぽい紹介をしてしまいましたが、表情豊かな熱演で、巧みな話芸で楽しめます。これまで聞いたことのない方は、どうぞ一度お聞きになってみてはどうでしょうか。弊社の話しに持っていくと瀬戸賢一先生のレトリックの研究書『レトリック探究』が8月初旬の近刊です。メディアでのマルチモーダルな説得の戦い(落語のように右左と空間を使います)についての議論のある片岡邦好先生の『メディア談話へのまなざし クロスモーダル分析の試み』は、先頃刊行したところです。こちらもあわせてどうぞ。


2024.8.7

〇書籍はネットだけでいいのか、をめぐる議論

駒込の東洋文庫のそばにある古本屋さん「BOOKS 青いカバ」さんのX(旧Twitter)での、発言に考えさせられました。

「店を開けるというモチベーションをどう維持するか?というのはこれからの小規模小売店の大きな、かつ喫緊の課題だと思う。

生きていくならもうネット販売だけで良いじゃないか?と思いながらも、うじうじと諦めきれない、もしくは店でしかできないことがあるとわかっていながら、そうそううまくは売れないというストレスとどうバランスするか。

それくらい商売という点で言えば、圧倒的にネット販売なのだ。いまは。

あーそう言った意味ではAmazonは目的を達成しつつあるんだよ。でもさ、それでいいのかい?消費者として事業者としてもういちど考えてみたい。」

(@hippopotbase 2024年8月4日)

本を販売するということだけなら、ネットで売るのが効率がよいが、リアルな店舗を持つということについて考えてみたいということと私は理解しました。本は売れている一方、店をあけて、人が立ち寄って、手に取ったり、眺めたり、そして購入したりすることが意味があるにしろ、立ち寄る人が、期待ほど多くないということでしょう。

自分の立場に寄せて考えてみます。出版社として新刊を出し続けていますが、個人の方の購入はネット書店が多くなっているでしょう。小社では、メールマガジンを通じた直接の販売もしているわけで、書店の店頭で見てもらっての購入ではないパターンも多いというのが現状です。書店かネット販売かということに加えて、電子書籍化もしていますから、物体のない情報としての本も売っているということです。一般的な書籍の場合、コミックなどはもうかなり電子書籍で流通しています。それでも、一定以上紙の書籍の販売も維持されているので、紙の本が売れることはなくならないということではあると思います。

一般論を話しても、あまり何かを言ったことにもならないと思いますので、話しを少し絞ります。物体のある書籍の意味ということについて考えています。物体のある書籍の刊行のインパクトということを考えてみたい。とくに新刊の場合、本が出たということを知ってもらうということ、そのことで、話題になったり、言及されたり、内容についてこういうふうに思うという発言が現れたりということの、機縁になると思います。学術書は店頭で見ることができることは、そんなに多くはないですが、刊行前に書店に告知して、並べてみようと思ってもらえれば、店頭に置いてもらうことができます。そうして、見ることで新刊が出たということを識ることができます。先ほども言ったように学術書を店頭で見てもらうということ自体が困難であったりするわけです。ただ、やはり、一定期間、編集してきて、やっと本ができれば、できたタイミングでいろいろな広報宣伝もします。本が売れるには初動というのはかなり重要なのでそのタイミングで宣伝・広報活動を盛り上げようとすることになります。このように述べていますが、物体のある紙の本だから、こんなふうに感じるのか、電子であっても同じということがあるのかは実感としてはわかりません。

やはり、思うには電子だとできたという実感が、弱いのではないでしょうか。献本するということもなかなかできないですし、在庫があって、減っていくという感覚がないので、出来たタイミングで宣伝・広報活動を盛り上げることもできにくい。物体としての本は、達成感があって、頑張ろうという気持ちになりやすい。このあたりは、紙の本で育った編集者・出版人だから、そう思うのかもしれません。

これも、X(旧Twitter)で、ブックコーディネーターの内沼晋太郎さんが次のような発言をしていました。

「いま10代~20代前半くらいで活躍している人たち、これから活躍したいという人たちの中にも、まだ「自分の本を出す」ということに特別な思いはあるだろうか」

(@numabooks 2024年8月5日)

そもそも、本を出そうというモチベーションがあるのか、ということ。電子的な書物が中心になると物体として書物が持っていた、パッケージをまとめるという動機が生まれるのか?これは、書籍ではなくてアルバムをまとめようという気になるかという議論で、ミュージシャンの長谷川白紙さんが対談で言っていたこと発議の通り。「わたしにとっては、アルバム自体がそもそも意味のわからないものだったというか。わたしはアルバムって長すぎるとずっと思っていて、10も20もの曲が入っていることを異常に感じていました。わたしは中学と高校に全然行っていなかったのでフリータイムが長かったんですけど、例えば一日仕事して疲れて帰ってきた人が20曲も聴けるのかというようなことを疑問に思っていたんですよね。」(「特集長谷川白紙」(p.44)『ユリイカ』2023・12)作品を作りたくないということではなくて、アルバムのようなまとまりのある作品パッケージについての話しです。

一方、もし、何かまとまったものを作りたい、さらには知りたいという欲望が物体性にそもそも関係しているものなら、『2028年街から書店が消える日』には、2028年に小学校で電子教科書が本格化されるということですが、場合によっては、記憶したい、体得したい、知りたいという欲望自体をうまく作り出せないという危険性もあるのではないかと思います。(『2028年街から書店が消える日』を読むと電子書籍が本格化するので、紙の本を書店が扱わなくなって、タイトルのように2028年には書店がなくなると私は読んだのですが、実際は、紙の教科書をなくすのではなく、併用ということのようです。このような誤読を誘引するタイトルの付け方は、書籍の売り方としては私は賛成できません。)物体性と知的活動、知的な動機の関わりは、これまで実証されていないので、紙の教科書がなくなるあるいは、使用が減ると知的活動が劣化する危険性があり、下手をすると無責任な実験になってしまう危険性があると思います。デジタルのネットワークの中で生活しているような感覚の人であれば、物体に関係なく、モチベーションを生み出すことはできるのかもしれないですですが、それは一部の人に限られているという可能性があると思います。

ここで、リアルな物体的な出会いの場所が、これからもずっと求められ続けられるのかという問いに戻ることになります。やはり、難題であるということになって、答えは分からず、模索し続けるということなのかということだろうと思います。

この春に刊行しました中山弘明著『〈学問史〉としての近代文学研究 「はじまり」の位相』は、序文で、学生たちの研究会があって、〈学問〉としての近代文学研究が立ち上がり、はじまりがあったということを述べています。はじまりをつくり出すためには、リアルにあって活動する具体的な集まりが必要であったのではないか、と思います。学問をつくるという知的な営みにどのような、リアルと非リアルが関わるのか、そのことは出版にも関わることだと思います。これもまた難題です。

----------

執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



「本の出し方」「学術書の刊行の仕方」「研究書」スタッフ募集について日誌の目次番外編 ホットケーキ巡礼の旅

日誌の目次へ
ホームページに戻る

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
房主
i-matumoto@hituzi.co.jp