ひつじ書房は31周年を迎えました。
2021年3月2日(火)

ひつじ書房は31周年を迎えました。

(2月24日にメール通信で配信した内容がもとになっています。)

ひつじ書房はこの21日で31周年を迎えました。20周年の時は、周年行事を行いました。20周年を迎えるにあたって、ひつじ意味論講座(澤田治美編)を企画しました。記念ということで、20周年の年には、『21世紀における語ることの倫理』(助川幸逸郎・堀啓子編)、『可能性としてのリテラシー教育』(助川幸逸郎・相沢毅彦編)のシンポジウムを行いまして、書籍化しました。25周年の時は、行いませんでした。東日本大震災の後の数年は、力を充分に蓄えることができなかったのだと思います。途中まで言語学の季刊誌を刊行しようと思っていたのですが、力が足りませんでした。30周年は、大きな節目となる時期でしたのでシンポジウムをやりたかったのですが、新型コロナ禍の中でできませんでした。

そして、この31周年を迎えましたが、緊急事態宣言が発令されている中で、4月以降に落ち着いているのか、まだ、不明ですので、具体的に動いて催しを計画するというのはまだ難しいでしょう。ネットで何かやりたいと思っていますが、まだ、決めることができません。昨年に『発話の権利』(定延利之編)、『認知言語学と談話機能言語学の有機的接点 用法基盤モデルに基づく新展開』(中山俊秀・大谷直輝編)を刊行し、今年のうちに『日本語の乱れか変化か--これまでの日本語、これからの日本語』(金澤裕之・川端元子・森篤嗣編)、『語法と理論との接続をめざして』(金澤俊吾・柳朋宏・大谷直輝編)、『日本における言語社会化ハンドブック』(クック治子・高田明編)、『実験認知言語学の深化』(篠原和子・宇野良子編)を出します。これらの一連の新しいジャンルの研究書の刊行が、一群となって30周年周辺の目玉となる書籍だと思っています。

そして、この31周年に私は60歳になりました。還暦ということです。前の会社を20日付けで退職し、翌日、私が29歳になった誕生日に創業しましたので、誕生日と創業の日は同じです。つまり、会社と一緒に年を取っていくということです。ちなみに有限会社として登記しましたのは6月ですので創立記念日は6月にしています。創業した時には還暦になるなんていうことは、想像もしていませんでした。生きていればそうなるということは分かっているはずですが、ありがたいことですが、30年も過ぎて会社が生き延びることができるということを確信はできませんでした。

さて、これからの目標を申し上げたいと思います。従来の言語学・言語研究を軽んじようと思っているわけではないですが、新しく目標を設定したいと思います。私は、1990年にベルリンの壁が崩された年の翌年に創業しました。その後、言語についての考察が深まり、言語の見直しが行われて、言語を尊重する機運が高まっていくと期待していました。高度な社会になっていくわけですから、より学問を尊重し、合理的に説明し、合理的に言葉を使って議論していく、言論や知性を尊重していく社会になっていくこと、その中で学術出版の役割も存在もより重要なものになっていくだろうと考えていました。『市民の日本語』(加藤哲夫)という本を出しましたのも、ことばに対してよりきちんと向かい合う社会が生まれていくことを期待していたからでした。民主党政権はそういう意味では、NPOという市民活動を尊重する中に生まれた政権であり、ひとつの到達とも考えていたと思います。しかしながら、現在の政治を見ていると「より学問を尊重し、合理的に説明し、合理的に言葉を使って議論していく、言論や知性を尊重していく社会になっていく」ということはできていないと思われます。〈合理的に言葉を使って議論していく〉ということが可能なのか。ことばを紡いで、合意を編み出していくという文化的な習慣は、上手く作られていないと考えます。「人間は平等であり、発言し議論して決定する」というのは、理想として間違っていないと思いますが、それが実現するための「議論文化」というのがあるかというと残念ながら、存在できていないと思います。「人間は平等であり、発言し議論して決定する」という理念があっても、「議論文化」がなければ、理念は実現しないでしょう。「議論文化」を作り出すためにはどうするのか、私はそこに言語を研究する人の長い道のりがあると思います。「正しければ通じる」というのが、学者的な信念でしょうが、その土台についても考える必要があるでしょう。「議論文化」がないなかで、普遍的な立場からの主張は、権利としては主張するべきであるとしても、前に進まないのではないかと恐れます。

どうやったら、伝わるか、そういうことを考え続けてきた内容が、修辞学であり、考えてきた人々が、哲学者あるいは文人なのでしょう。専門家とそうではない人(政治家であったり、大衆であったり)の議論には困難があるということは、ずっと議論されてきたことです。しかし、なぜか、議論への認識が、日本では上手く受け入れられてこなかった。私は、誹諧=連句というものが日本にはあって、違う立場の人が共同で誹諧を作り上げるという共同作業の文化は存在すると思ってきましたし、そう主張してきました。そのこと自体は、間違っていないと思います。互いの誹諧を読み、批評するという読書行為、創作行為が「公共性」を作り出す種になっているのではないか。しかし、現実には上手くはいっていないでしょう。私は連句の可能性を信じるものですが、いまだに未完のプロジェクトという切ない気持ちを持つことがあります。こんなに繰り返しても、いまだに未完のプロジェクトなのかと。私は、言語研究者は理念を問うだけではなく、その前提を捉え直して、それを日本社会それ自体を「言語教育」することができないものであろうか。社会全体を「言語教育」するというのは、「言語文化」を作り出し、広めていくということです。社会が自分でそれを必要と感じていないのなら、それは壮大な「押しつけ」といえます。ここに教育のジレンマもあります。教育は主体性を尊重するべきものですが、主体に変化を求めるという主張ができるのか。私は、大げさに言うと21世紀の言語学、言語教育の課題はそこにあるのではないかと思うのです。それを支援すること、それが言語に関わる学術出版社の責務ではないかとさえ思うのです。広い意味での言語技術、修辞学をもてはやしていきたいと考えています。

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執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



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