議論のやり取りの参加には階層が複数あるのではないか
2020年7月12日(日)

議論のやり取りの参加には階層が複数あるのではないか

(7月10日発信のメール通信が元になっています。)

上手いまとめ方になっていないですが、議論のやり取りの参加には階層が複数あるのではないかということを考えています。これは、言語観の問題でもあります。

あまりいい例ではないですが、説明のために一例を考えてみます。唄と三味線を目的とした古典芸能系の同好会があるとします。その古典芸能の歴史的経緯から、唄の方が役割として重要だとする。参加者は、いろいろな世代がいて、老若男女がいるとする。主催者は、高齢だとします。

こういう場合、参加者は参加者として平等あるいは対等として、何かを決めようとした場合、どういうふうに個々の参加者は、振る舞うのでしょうか。議論に参加するでしょうか。発言権は、均等でしょうか。きちんきちんと休みなく稽古に来ている人(勤勉さでは評価されているが、技能的には評価されていない)。たまにしか稽古に来ない人(勤勉さでは評価されていないが、人数として認められてはいる)。唄はまあまあだが、三味線が上手な人(楽器の演奏については評価)。唄はまあまあ上手だし、三味線もそこそこ上手な人(平均点以上)。何かが決まったとしても、仕事が忙しく積極的に協力はしにくい人(人数として評価)。主催者は、高齢ということですので、今後どうしていくのか、解散することになるのか、同じ流派の別の師匠につくことになるのか。そのメンバーの誰かが後継者になるのか。

あんまりいい例では無いとと思いますが、参加者として平等ということと発言権として平等というのは、違っていることがあると思われます。発言権はその団体の文化というのがあり、それによって左右されます。評価される技能があるということ。その文化を継承するには、経済的な力量も必要ですし、その文化を担う芸能的技倆も重要な役割を果たします。その文化が、その偏りが、一般的に許されないものなのか、どうかという問題もあります。正しい発言が、受け入れられることもありますが、受け入れられないこともあります。

参加者として平等をレベルAとその団体の文化的バイアス(文化なのか組織としてなのか)による発言権をレベルBとする。

そういうレベルの違いをないことにして、レベルAをレベルBまで及ぼしてしまうと議論ができないのではないか。議論に参加する時の平等さのさまざまなレベルがあるのではないか。議論と何かを決定する際の言語活動としての平等性。誰かの議論に説得力があるとして、それは何によるのか。ある人の発言は尊重され、ある人の発言が無視されるのはなぜか。正論があるとして、かならずしも正論が支持されないことがあるのは何でなのか。正論と自分を思う人は、その正論に従わない人の発言をフェイクといったりすることもありますが、それは説得の方法としてはどうなのか。民主主義社会があるとして、その前提は全員が平等に参加することと思われていますが、参加は平等なのかということ、参加しさえすれば、決定に関わることは平等なのか、あるいはテーマによって関与度が違えば、何をもって平等というのか。

レベルBの言語使用の議論が、進展しないのは、レベルAの言語観からするとレベルBの議論を人権を尊重しない反動的な議論と決めてしまうことがあるのではないか。レベルBの言語使用の研究を進めるには、レベルAの言語観を全ての階層に当てはめることから脱しないといけないのではないか。レベル差の存在を認めて、その違うレベルでの議論を認めるということ。言語学の議論に言語観があるということを認めるべきではないか、ということ。言論の説得力の研究というのもないように思います。誰々の発言は、フェイクだという「真理」からの批判はありますが、それはそれとして倫理家としては、必要ですが、なぜフェイクが説得力を持ってしまうのか、という言語問題としての研究はないように思われますが、どうでしょうか。言語学批判の言語学が必要なのではないか。

もう少し整理して、あらためて述べさせてもらいます。すみません。

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