2016年のアメリカ言語学会に参加しました

2016年1月19日(火)

2016年のアメリカ言語学会に参加しました

アメリカ言語学会の学会展示

アメリカ言語学会(Linguistic Society of America)に今年も参加しました。今年で4回目になります。初めて参加した2011年のPittsburghの時は、手話通訳が発表を通訳していることに、驚きました。日本でも最近は、手話通訳が付いている発表も見かけるようになったように思いますが、その当時は、ほとんどなかったと思います。その年の3月に東日本大震災が起こり、しばらく、行かれませんでしたが、2014年に復活して、MinneapolisとPortlandと今回のWashington, D.C.とアメリカ言語学会に3年続けて参加しました。

行くだけでもなかなかたいへんです。販売的な成果は全く上がっていないというのが現状です。それでも、行く意義があるとすると、将来的に英語での学術出版を本格化する前の準備のためということと、日本の学会では気が付かない学会のあり方に気が付かされるということでしょう。それらのために大きなコストをかけるのかというのは、難しいところがありますが、あまり成果を急いで求めすぎると止めた方がいいという結論に即座になりますので、しばらくは成果を求めないことにします。

●学習という視点の存在

アメリカ言語学会を観察して気になったことについて、述べます。これまでも、そうであったのかもしれないですが、今回は発表方法や発表テーマについて気にとまりました。数回参加して、やっと中身に目が向きました。日本の言語学会は、研究テーマや研究手法については、伝統的なものがほとんどだと思います。言語学が、近代言語学として、確立した、近代的言語学としての王道であった研究を踏襲している研究テーマが多いように思います。現代的というか、現在の言語的状況に対する無関心というか不関与的な研究が多い気がします。日本の状況とは、アメリカ言語学会の発表テーマは、大分違います。

初日に開催されていたのは、音韻研究における学習と学習可能性、というテーマでした。これは、狭い意味での外国語学習法研究や応用言語学ではなくて、言語学の研究でした。学習と学習可能性という観点から、音韻的な言語現象を分析するというものでした。日本の言語学の発表で、学習ということが意識された発表はあったでしょうか?学習ということばをずっとタブーにしているように思います。誰も禁じてもいないと思いますが、その部分を外すという暗黙のルールがあるように感じます。

多言語状況の中での言語学習というテーマのシンポジウム。こちらは、言語教育の研究で、狭い意味での言語学とは違うものでしたが、言語の社会性、社会における言語という点で興味深い発表でした。日本だと日本語教育学会で行われそうな研究発表でした。とともに、言語景観の中で、言語を学んで、発表しつつ、相互的な批判も行うという学習研究で、言語景観研究と言語教育が、ニューヨークの郊外に、スペイン語コミュニティがあり、街角に壁の壁画のような、人々の生活を描いたアートがあるという得意な事情があって、なりたっているのかもしれませんが、なかなか面白かったです。

●社会と言語研究という視点

公共サービスに対して言語学がどう貢献できるか、というテーマのシンポジウムがありました。大学生が言語学を専攻することが、社会にとってどのような意義を持つのか、就職に役に立つことがあるのかという発表も日本ではほとんど考えられないものでしょう。同じ時間帯に言語教育における基盤としての言語学というシンポジウムもありました。言語教育課程の中で言語学の講義をちゃんと組み込んでもらおうという内容でした。2部屋用意してあったわりには、参加者は多かったとは言えない参加人数でしたが、そういうテーマのシンポジウムが行われることが、日本の言語学会ではやはり考えにくいと思います。言語教育に関係しているということと、大学教育のカリキュラムに関わっている内容であることとは日本の言語学会は無縁な感じがします。

言語学が、純粋に旧来型のアカデミックな研究を遂行していることとともに、社会の中での言語研究を意識した研究が、共存しているということは私は重要なことだと思いました。日本の言語学会も、日本語学会も、言語教育についてのテーマもほとんどありませんし、社会の中で言語研究をどう関わり付けるのかという観点の研究もないですし、ダイバーシティ、多文化状況と言語研究というテーマもないということは、大分違うように思われます。そういう研究がないわけではありませんが、メインの学会とは違うところで別に行うというようになっているように思います。

個々の研究は、研究者それぞれの探求するテーマに基づくのは当然のことですが、学会として組織された際に、その学問が社会と関わることについての発表があること、そのような研究ジャンルを包含していることは、重要なことと思いますが、日本の学会では、排除されてしまうのでしょうか。そういう新しいテーマは、別の学会や研究会で扱うというふうになってしまい、言語研究の本丸では行われず、出城で行われるようになってしまうようです。本丸は人は多いのですが、新しいことを研究する重要な人々が来なくなっているように感じてしまいます。

アメリカには、第一言語としての英語教育学会のようなものはあるのでしょうか。たぶん、あるのでしょうが、あったとしたら、どのように区分けしているのでしょうか。区分けしつつ、お互いの関係はどうなのか、気になります。

●学会の発表題目が分かりやすい

発表の形式について、研究発表が、それぞれ、シンタックスであるとか、セマンティックスであるとか、研究分野によって、セッションが分かれていて、明示されているのは分かりやすくてありがたいと思います。日本言語学会もおおむね区分けされていますが、分科会のタイトルは明示していないと思います。発表する個々の題目は、狭すぎず、究明しようとする目的を書いているので分かりやすい。日本の研究発表の場合、扱う事象をタイトルにしてしまうので、細かくなりすぎるのと、何のための研究なのかが分かりにくいという欠点があります。究明する目標をテーマにしてくれれば、個々の事象については関心がなくても、テーマが共通すれば、聴きに行こうという気になるので、発表を聴きに行きやすいことになりますが、そうなっていないことが多いです。これは、日本語教育学会や、言語学会も日本語学会にも同じような点があります。発表タイトルの付け方が、分かりにくいと感じます。これは、指導教官が指導すべきであるとともに、学会レベルで、ガイドラインを作るなりして、できるだけ他の研究者にも関心を呼ぶような研究タイトルにするように努力した方がよいと思われます。

今年はアブハズ語の文法という書籍を手にとって下さる方が多くいらっしゃいました。地域言語の記述的な研究については、その分野に関わりがある人は関心を持って下さるのだと思います。丸善eBookLibraryにpdfベースの学術書を提供するようにすることをはじめました。2017年は、テキサス州Austinですが、丸善eBookLibrary所収の英文研究書を大学図書館に入れて下さい、というキャンペーンを行おうと思っています。

ホワイトハウスと反戦小屋
ホワイトハウスと反戦小屋の看板

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