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今、頭の中にあるのは経営と本を作る仕事のつりあいということだ。別に経営者になりたくて、出版社をつくったわけではない。自分がいいと思う本を作ることのできる小さな、気さくで、楽しいユニットが作れればいいと思っていただけである。これに関しては、仕事場自体は楽しくできていると思う。ところが、ここ数週間の間、先月も触れたが、決算という大きな問題があり、資料を作ったりしていると頭の中が、ごちゃごちゃになって普段の仕事も進まないのである。会計というものはなかなか難しく、ただ、まじめに働いていれば、よいというものでもなさそうなのである。それは、税制が、小さな出版社にとって都合が悪くできていて、素直に仕事をしていると借金だらけなのに(昨年1年間で1000万円近く借り入れている)、税法上は利益がでてしまうおそれがある、とか。返さなければならないお金がたくさんありながら、税金を払うというのはあとでつじつまが合わなくなる。借金も私の信用ではなく、私の70歳近い親の保証によって出来ているわけで、もう限界なのだ。もうこれ以上借金もできないのにも関わらず先に税務署にお金を払うことは、できない。
このような税制はおかしいから、様々な方法で訴えていかなければならないが、それより先に経営的な手腕で乗り切る必要がある。ということで、春から、経営のための会社会計の早稲田大学のエクテンションに通うことにした。いったい、利益が出ていないのに、税金の心配をしなければならないとはどういうことだろう。出版社も10年を過ぎるといろいろ疲れてくるというが、これもその原因の一つであろう。こんなことで疲れなければならないのは、本当にばかばかしい。
経営的に大人になって、税金を過大にとられないような体制作りをめざす。そのために決算も3月末から9月末に移動する。
今年、デジタルテキスト・表現の技術を考えるシリーズを刊行し始める。『デジタルテキストの技法』(家辺勝文著)の原稿は、ほぼ入稿し、『パソコン快適読書術』(富田倫生著)の原稿も、5月には入るであろう・・・。これらの本は、文章を読み書きするメディアが、デジタルに移行する中で、その意味を問いかけると同時に、サバイバルの実践的な技術について提唱することをめざしている。結果としてアナログの意味も明らかになるであろう。全ての人文学の基礎である文章とどう立ち向かうか、ということの本当にベイシックなものがここにある。これらは、当然、コミュニケーションの基礎でもあるし、言語学の課題でもあるといってもかまわないだろう。
>ここでひつじ書房としてめざしていることは、知識・思考をテーマとする人文科学の出版社として、新しい時代をリードするための基盤を作ることなのだ。これは、単に啓蒙的に知識を伝えるということではなく、著者たちも、ひつじ書房も同じ実験者として立ち向かっている現実の中から生まれて来ようとしているものだ。これらが、読者の支持を得られた時、ひつじ書房は、新しい評価を得られるであろう。
ホームページの作られ方も変化してきている。いったん、ダウンロードするとサーバーにアクセスしないでもページの内容を変えたり、文章の表示を制御したりするダイナミックHTML、行間を変えたり、文字を重ねたり、それから、見出の大きさ、色合いなどの指定が可能なスタイルシートなど。
現在、勉強中のはperlもあるし、大変だ。これらの技術は、少しずつ補いあうものでもある。しかし、見る人間の選択によって、表示される内容やレイアウトが、変化する。これは、なかなか挑発的なことではないだろうか? 本が、見る人の気持ちで形を変えることができるとしたら・・・。これらの新しい技術は、ここでも、既存の本とは違ったテキストのあり方を示唆しているようだ。
大道芸人は辛い。パフォーマンスがうまくて、お金を払ってやろうと思わせなければ、だれも空き缶にコインを投げ込んでくれない。劇場のように入場料があるわけではない。道ばたでたまたま、芸が行われているのに遭遇して、足を止める。芸がそこそこ面白いだけでは、だめだ。こいつに100円でもいいから、お金を払ってやろうといく気持ちになってもらわなければならない。楽しませるだけではなく、財布のひももゆるめないといけない。こいつにはお金を払ってもいい、こいつが生きけた方が、世の中が楽しいと思わせたらしめたものだ。いつもよりも多くのお金を払ってくれたり、豪華な夕食をごちそうしてくれるかもしれない。
なんで、大道芸人の話と思われるかも知れないが、現在のWEBの情報発信は、大きな通りで、芸を延々と見せている状態に近い。だれか、後ろに旗を持って立ってくれる広告主が現れない限り、その芸にはだれもお金を払ってはくれないのだ。もしかしたら、ちょっとばかりカンパしてやろうという気持ちも見ている方にはあるかもしれないのに、そこに空き缶や帽子が無いためにお金を投げ入れることができないのだ。芸人も、そこでなにがしかの金銭が得られれば、生活の基盤をシフトすることができる。他で稼いで、その分、芸に回すのではなく、芸だけで食えたり、あるいは「副業」にかける時間と労力を減らすことができる。また、投げ銭を受け入れることは、批評を受け入れることでもある。励みにも成るし、頑張っているページが生き延びることが出来るすべとなる。
もし、この「投げ銭」システムが、軌道に乗れば、大げさな課金システムもいらないし、組織に依存しなくても、生きていけることが可能になる、NPOやボランティア組織も生き延びやすくなるというものだ。現在、大勢となっている集金システムとは全く違ったお金の流通のシステムができれば、もっと自由になれるだろう。また、この方法はインターネットとも親和性が高いものだと私は信じている。親和性が高いといっても、無料なのが正しいという考えとビジネスにならなきゃ意味がないという声の2極に分かれている現状では、同意してもらえないかも知れない。この点については、2極とは、異なった論理こそが必要なのだ、ととりあえずいっておこう。分かる人にはすっとわかるが、そうでない人には時間がかかる。今日のところは、置いておくが、このシステムが稼働するかどうかで、インターネットが面白い、市民のものになるのかが、決まると言っておきたい。
4月は、書いた量が少なかったので、5月と一緒ということにしよう。
トップのページを見ていただいてもわかるが、ひつじ書房のメーリングリストを作ることにした。これは、当然、前から作ろうと思っていたことではあるが、ひつじ書房のwebも全て含んだ宣伝力を向上させなければ、という思いから、浮上してきたものである。ひつじ書房のホームページもおかげさまで、いろいろな人にアクセスしてもらっている。最近疲れ気味で、ちょっと弱気なのだが、冷静に考えると一専門書の出版社で現状であってもこのようにアクセスが切れないのは、かなり快挙だと思う。自分で自分をほめてしまおう! 今の力を維持した上で、ここで手を抜かないで、しっかりしたものにしよう、ということだ。ひとりごと、原稿が早くくるといいな。
ひつじ書房では、書評ホームページを運営している。書評欄の常連で詩人のWさんが、津野さんの『新・本とつきあう法』について述べられたあと、最後に次のように述べられている。
でも、やっぱり気になるのは活字本なり出版の世界のこれからだ。津野さんの分析をふまえて私なりに勝手に消化・展開すると、水ぶくれした出版業界は効率を基準にリストラが起こる。大出版社はプロデュース機関となり、いつでも切って捨てることのできる子会社、プロダクションが実務を行う、中小出版社は特徴のないものから順次つぶれるか縮小、そして作り手の思いを込めた本作りなどはオンデマンド印刷やインターネットなどを駆使した、出版を金儲けの対象としない、いい意味でのアマチュアリズムにゆだねられるというあたりだろうか。現在の大書店のスタイルも、定期的に面白いフェア(市場)を開くとか、百貨店ふうに売り場ごとにテナント制にして品揃えに個性を持たせるといった工夫なしには立ち行かなくなる時が来るだろう。まだしばらく職業編集者でありつづけるだろう私としては不安でもあり、だから自分の頭で考えるしかないんだな、と本など最初から読みもしない、身の回りの職業編集者たちに囲まれながら思う。そうした、本ということにこだわらない編集者たちが案外新しいメディアのスタイルを作ってしまうのかもしれないけれどね。
「いい意味でのアマチュアリズム」ということばに共感する。儲けになるから、いやいや無理をして作るのでなく、それなりのスキルを持った人が、書き手と読者との何らかの感覚を共有しながら楽しんで作るという方向に変わっていくだろう。儲けではなくても、それなりの金銭的な収入もアマチュアリズムといいながらも必要である。それは、書き手との信頼の中で、食わせていただくということだろう。これは、学術書も同じである。
先週の土曜日、15日であるが朝日新聞にひつじ書房が取り上げられた。詩のアンソロジーが、どうしてあまりないのか、ということについてのインタビューであった。ひつじが何で詩? と思われる方も多いと思うが、ひつじでは『ひつじアンソロジー詩編』という本を出しているのである。これに荒川洋治さんの詩も載せていて、荒川さんが記者の山脇さんにこの本のことを教えたらしい。私が、何か偉そうなことを最後に述べているのでちょっと何なのであるが・・・。しかし、何人かの知り合いと執筆者の方に見たと言われた。さすがは、朝日か?
さて、山脇さんが来られたとき、書評ホームページの話しもした。その時にNewYorkTimes Book reviewをまだ見たことがないが、それをめざしているという話しをしたら、手元にあるのを送って下さるとのことであった。それが、今日届いたのである。なかなかすごい。表紙の印刷が汚いのには、驚いたが・・・。やはり、専門的な本だけでこれだけの書評がなりたっている(あるいは成り立たせている)のは、恐るべきことである。再販制が無くなってもいいが、このような雑誌が、日本になぜ無いのか?朝日に載った話しではないが、NewYorkTimes Book reviewを定期講読して欲しいという宣伝の見本が「詩が何を残したか」であった。向こうでは、詩を扱うことが可能なのである・・・。これは、いったい何の違いなのか?
身ほど知らずではあるが、出版を断ることもある。本を出したいというお申し出をいただくと通常、その分野の知り合いの研究者の方に送り、内容を見ていただく。内容が、いいものであるかをその方の立場で判断していただくわけだ。その判断をお聞きして、私の方でも少しではあるが考えてからお答えするのである。
そもそも驚くべきことは、今まで一度もおつきあいしたことのない方から、突然、手紙をもらうことがあることである。紹介者もなく。それでいて、本の制作費を払うと書いていることもある。一度も会ったことのない人の場合、その人がいったいどんな性格のひとで、原稿の書き方や、文章のうまいか下手かも分からないで本にできるものだろうか。仮に400ページの本で、めちゃくちゃな人であるなら、1000万円もらっても引き受けたくない場合もある。本の作り方が分かっている人かどうか、という点もかなり重要だから。
ここで、われわれの秘密をバラそう。もし、数年後に本を出したいと思っているのであれば、まず、大型企画を直接手紙で、予約する。その中になにか一言書いておくとよい。これは、単なる予約データベースに入れられるのをさけるためだ。できれば、数度予約する。そして、教科書を採用する。データベースを管理して、名簿のチェックをすることが多いので、もし、予約の時に名前が記憶に残っていれば、チェックした時に記憶に余計に残る。お世話になっている人であることが、認識される。つぎに学会で、手にもてないくらい沢山注文する。宅配便で送ることになるから、住所を控えるし、小社の本をいつも良く買ってくれている人という印象になる。この間、学会で発表し、学会で挨拶をし、常識がある人間であることをアピールする。ここまでで、かなりいい印象が残っているはずだから、そこで、ひつじ書房の著者に頼んで紹介してもらう。ここまでしてくれて、内容が良ければ、我々は心と体をすべてその本の刊行のために捧げるだろう。
本を出して一度目は、良く売れたのに、2回目は売れなかった場合。3回目は引き受けるべきか。なかなか難しい問題である。2回目の本は、500部だして、半分まだ残っている。具体的にいわないとわかりにくいかも知れないが、それはやめておく。2回目の本の失敗のコストは、我々が全部かぶっているが、3回目はそれでは引き受けられない。半分しか売れていないので、100万円以上の損失だろう。申し訳ないとも思うが、新たに引き受ける場合、リスクの一部をやはり著者に負担していただくしかないだろう。問題は、今回は論文集である点だ。だれに責任があるのだろう。執筆者は、単純に論文を書けるから、投稿しただけかもしれないからだ。それでもなお、我々はリスクを全てかぶることはできない。これは、編集委員と相談の上、編集委員と執筆者でリスクをすべてではないにしろ、一部分担してもらうしかないだろう。わずらわしいことだが、出版を断念しないのなら、説得と相談が必要になるだろう。清いかも知れないが、本を出さないと言う道を選択すべきではないだろう。面倒な道をこそ選ぶべきだ。もし、何とかして同意が得られるのであれば。
朝のラジオの番組で、ひつじ書房が取り上げられたらしい。らしいというのは、直接聞いていないからだが。複数の方から、ラジオを聞いたという連絡をいただいた。印刷所の方、取次の方。最初は、大学時代の先輩であるIさんから、ファックスで。なんとお電話までもらい、本屋さんで注文までしてくれるそうだ。持つべきものは先輩である。ありがとう。そもそもひつじの話しをして下さったのは、詩人の荒川洋治さんで、山脇さんが、朝日新聞で書いて下さったようなことをラジオで話して下さった。「大手の出版社がださない詩のアンソロジーをひつじ書房という小さな出版社が出している」荒川さん、ありがとう。詩の本をださないと行けないような気になってきたなあ。ちょっと困った。
教科書の返品についての怒りについては、絵日記に書かれているので今日は触れない。返品の原因について、述べたい。見込み違いの一言ですまされるのは、許しがたいが、書店の責任だけではないこともあると思う。それは、受講決定時期が遅くなることによって学生が教科書を買う時期が短くなってきていることによって実際の売れ部数を決めることがかなり困難になってきているのではないかということ。シラバスを教員は作らされ、講義要項でかなりの部分わかるようになっているはずなのが、大学は、学生には、選択の幅を広げつつ、検討期間を伸ばしている。そうしている内に連休になってしまうわけだ。もし、そうなら、大学は春の一定期間、講義の時間を半分にして、短期間で授業を比較できるようにしてはどうか。そうすれば、2コマの授業を1週間で比べることができる。