1997年7月1日 目録出来た

やっと未発の第3号が出来た。国語学会・言語学会・英語学会・認知科学会の会員の方にはお送りします。これにともなって、ホームページの内容も新しくしました。今回は但野がやってくれたおかげで、スムーズに出来たと思う。ありがとう。

 1997年7月3日 つながる喜び

とうとうやっと、専用線で、インターネットにつながりました。わー、考えたら、3年らいの願いがかなったということだ。そのころ、専用線が引けるなんて思いもしなかった。間借りサービスがやっとはじまったことは、日本総研のサービスで月、数十万であったのであるから・・・。

昨夜は、メールをつなげ、今日はスタッフでメールの送受の実験をした。よく小学校にパソコンが入って、メールが送れて喜んでいるシーンがあるが、全く変わらない。人と人とつながるということは、それ自体で喜びなのだ。testとかそんなことしか、送らないでいてもである。

しかし、夜3時過ぎていたとはえ、14k/秒で、データがダウンロードできたのには、驚いた。

ということで、当分、mmjpとhituzi.co.jpの両方で、発信する。

 1997年7月10日 出会う喜び(お披露目パーティ)

大勢に参加していただいて、楽しい会となった。参加して下さった諸氏にお礼申し上げたい。

日本語DTP組版研究会の面々、古くからの友人、そして声をかけたら喜んではせ参じてくれた季刊『本とコンピュータ』の編集者方々。もしかしたら、今後の日本の出版にとって重要な人々が集まっていたのかもしれない、などと思う。

私は、緊張と喜びのあまり、酔いすぎて、後半意識がなくなってしまった。ちょっとまずいですね。反省しています。

書評のホームページも、まだ内容は無いが、とりあえず公開を始めている。検索ページの作り方も、登尾がTANGO for FileMakerProで、とりあえず何とかしてくれそうだ。私も、マックのサーバーソフトであるWebStarのSSI設定を使えるようになったので、アクセスカウンターはNetClork(アクセスカウンター以外の機能も付いているが、2万円くらいする)を使わなくてもよさそうである。プログラムを使える環境というのはいいものである。これからは、勉強のしがいがあるというものだ。

検索ができると書名や著者名で検索できるから、一発で知りたいことが分かる。また、この機能を使うことで、書評のページに関していえば、書評のデータベースを作ることができる。今までやりたくて出来なかったことができるというのは、本当にうれしい。

 1997年7月14日 検索ができるようになりました

念願の検索ができるようになった。登尾さん、ご苦労様! これで、書名の一部しか分からなくても、本の情報を得ることができるようになった。ずっとずっとこれが出来るようになる日がくることを、私は祈っていた。単なる掲示板でなくなるし、今までは、読者がなにがどこにあるのかあらかじめ知っていなければ情報にたどり着けなかった。これは、本当は無理なことです。索引の機能は、本には必須だし、検索は、ホームページには必須なものだと思うから。

 1997年7月15日 Perlに苦しむ

自分のところにサーバーを持ったということで、単なる掲示板ではなく、コンピュータの機能を使って様々なことをしてみたくなった。いわゆるCGIを使うということだが、これがなかなか難しい。Perlを使うことが多いが、本当の初心者だ!でもまあ、がんばっていこう!

 1997年7月16日 本の学校へいく

房主とのぼの二人組で、米子へいくことにした。今年のテーマは「デジタル革命は本の世界をどう変えるか」である。私にとって、ここでのデジタル革命は、DTP化ではなくて、社会の大がかりな変動のことを意味すると考えたい。本日は、茂呂雄二さんが、来社された。こんど認知科学とことばと社会に関する叢書を、開始するからだが。茂呂さんが書いて下さるのは『教室の声』というタイトルである。これは、恐るべきタイトルだと思う。

 1997年7月18日 ボイジャーの萩野さん来る。

ボイジャーの大将、萩野正昭さんが、ひつじの事務所に、来て下さった。「本の学校」のセミナー向けの話しでお使いになると言うことで、ハイディビデオカメラを持って現れた。エキスパンドブックの主催の方に申し訳ないことだが、PDFについて取材をして行かれた。本の将来は、デジタルかアナログかという、外形ではなくて、中身の問題であるという問題意識を共有していることが、分かって、大いに勇気づけられた。

その時に、萩野さんが、紙の本を、そのまま電子化するのではなくて、別のかたちに、することは考えないのですか、ということを聞かれたので、私は、「学術論文の場合、引用があるので、ページを移動できないから、本の体裁をそのままのこした方がいいと考えている」というようなことを答えました。

でも、そのあと考えてみたら、ページというのは元々冊子本のためのものだったことに思い当たった。ページというのを、もしかしたら、やめてもいいものではないのだろうか。引用の場合も、節番号がしっかりしていれば、ページにとらわれる必要はないわけだ。様々な形態が同時に存在しうるということのためには、ノンブルから脱した方がいいかもしれない、その方が自由になれるのでは、なんて考えました。

 1997年7月22日 書評のホームページ、動き始める。

前から始めると言っていた書評のホームページを動かし始めた。基本的な枠組みができた。様々な出版社を探す分野別INDEX、書評と書評を書き込むことの出来る書評INDEX、出版社の提供する本のプレゼントのトクトクINDEX、新刊の紹介のページ。中身はまだまだだが、とりあえず枠組みができたということだ。よろしければ、ご批判・ご意見をいただきたい。

正直に言って、荷が重い。我々の任ではないのではないか、と思っている。しかし、マスメディアとは違った書籍情報の提供者・ナビゲーターはどうしても必要になるという思いは募るばかりだ。あんまり、格好の良いものは出来ないかもしれない。しかし、最善を尽くして見ようと思う。

 1997年7月28日 本の学校(米子)にいって来ました。

二日目の第2分科会では、急にパネラーにさせられてしまいました。最近考えている啓蒙主義の終わり、新しい研究書を作るには、電子本となる必要があるということを、述べました。ひつじのホームページと書肆山田の2つをホームページでは紹介した。

司会は、松田哲夫さんと萩野正昭さん、パネラーはWIREDの小林弘人さん、ジャストシステムの中尾さん、デジタローグの江並さん、大日本印刷の加藤さん、富田倫生さんと私であった。

概要は、本と流通の情報のホームページに載るようです。私のところのwww.shohyo.co.jp/top.shtmlにリンクを貼ってありますので、ご覧下さい。

ボイジャーの萩野さんが、最後の日、去年と比べると「ポツダム宣言を受託したみたいだ」と個人的な会話でおっしゃっていたのが、面白くもあり、もの悲しいものを感じた。どういうことかというと、去年はデジタル、あるいは電子本について、帝国は、神聖な物にして、不敗であるみたいな、「活字本は神聖なものにして、電子本には負けない、一歩も、電子本勢には、上陸を許さないぞ!」みたいだったのが、今年は、もう「民主主義は、本当は正しかった!」みたいになっていたというようなことのようだ。

会場で萩野さんが、デモをされたHTMLをエキスパンドブックに取り込むソフト(無料でボイジャーのサイトから配布中)は、なかなかすごいですね。今まで、Pagemakerでつくったものを自動的にエキスパンドブックにできるものがあれば、と思っていましたが、html書き出しのできるワープロやレイアウトソフトなら、手直しはもちろん、必要ですが、これを使えば、Pagemakerで作ったものをhtml書き出しすれば、そのまま、大エキスパンドブックにすることができるのですから。あるいは、私の房主の日記をエキスパンドブックにしてしまうのも非常に簡単だということになります。

閉会アピールということで、読み上げられた文章で、鉛版500年というのがあったので、時間はないのは分かっていたが、手を上げて確認を求めた。鉛版(えんばん)は、紙型が出来てからのはずだ。100年強しかたっていない。皆、活版は良かったなどというくせに、紙型と鉛版の恩を忘れ居る。これらが無ければ、大量生産は、不可能であったのに。いつも同じことをいうけれどもグーテンベルグが、総てを作ったわけではないのだ。




日誌 97年6月

日誌の目次へ
ホームページに戻る


ご意見、ご感想をお寄せ下さい。

房主
isao@hituzi.co.jp
(だいたい、届くようです。)

万一、届かなければこちらへ。

房主(jbc03436@niftyserve.or.jp)