言語に対する社会的な欲求

2012年3月9日(金)

言語に対する社会的な欲求

これは、ひつじメール通信で配信したものと同文文です。

主語についての議論はいろいろあるわけですが、日本語の主語は、欧米語のように動 詞を支配しているということはないという点で、文法としては日本語にとって必須の ものではない、ということは受け入れられている考えだと思います。

ただ、言語の内的な規則としてではなくて、社会的な要請という視点に立つとまた少 し違ったことが言えるのではないかと思うのです。近代以前の個人というものがあま り重要視されていかなった前近代的社会から、たてまえであっても、個人が社会の基 盤となる近代的な社会になるときに、近代社会にとって必要な<責任主体>を示す印と して、社会的なルールの中で、主語を言明することが要請されたのではないのだろう か、と思うのです。近代社会が求めた、仮構物としての主体(?)。言語自体の要請とし ては、それは必須のものではないとしても、近代社会に必要なことばとして要請され たと考えることもできるように思います。

「私は〜」という発言をするのは、文法的に必要なのではなくて、社会的に必要とさ れたときに使うものなのではないでしょうか。「われこそは〜」のように名乗ること が重要な時には「私は」というわけです。これは、実際の仕事の上のことですが、新 入社員に電話の引き継ぎの際に最初にいうことは誰からの電話なのかということです。 「主語をいいなさい」と新人に対していいます。書店さんからの電話なのか、著者の どなたからの電話なのか、読者からの電話なのか、によって、答える内容やニュアン スが変わることがあるからです。仕事の場面では、「主語」を明確にしろと教えるこ とがあります。これは、動詞を文法的に支配する「主語」というような意味ではあり ませんが、人間が社会的にやりとりをする際に必要なものなのです。とすると文法的 なルールではなくて、社会的なルールということになります。

とすると純粋な言語学を研究するという場面ではない、社会の中で話したり、聞いた りという実際の人間同士の力学の中で話し合う、その話し合い方を教える、日本語教 育や国語教育の場面では、「私は〜」を使う場合があるということを教えることがあ るのではないでしょうか。その場合、一応、主語ということばで説明するのかもしれ ません。どうしているのでしょう。

こういうことをいうと、さらに疑問がわいてきます。文が完結するというのは、言語 の仕組みからの要請なのか社会的なやりとりの中で必要となるかという疑問です。文 として完結することは、文法的な必然なのでしょうか。もしかしたら、社会的に、一 区切りの思想をまとめて伝えなさいという社会的な要請があるために、一文を作って いるのかも知れないようにも思います。となると、そもそも文法の基盤になる、文と いうものが、言語の仕組みからの要請ではない、社会的な要請によって作られている ことになります。別に言い切らないといけないという文法的な要請があるわけでもな いのではないでしょうか。となるとまた、言語の要請と社会の要請の区別がつきにく いという問題が生まれてきます。

社会の要請ということを、言語研究の中に取り入れていくことができるのでしょうか。 応用言語学ではなくて、拡大言語学? 要請といっても、明示的にこういうふうに変化 してほしいと誰かが述べるということではないわけです。そういうのは、近代的な言 語観からくる要請、ということになるのでしょうか。市民がそう願ったのか? ある いは、治世者による押しつけの要望? 「近代的な個人は近代的な個性を持つべきで、 そういう個人は主語を使って、責任を明示的に語るべきだ」という「言語観」あるい は「言語変化願望」でしょうか。あるいは、むしろ、命じられたことは責任を持って やってほしいが、あまり自己主張はしてほしくない、主体はあるけれどないようなあ いまいな状態が望ましい? これを研究するとしたら、時代社会が言語へ何を要請し ているかについての研究でしょうか? 言語願望研究?

この視点に立つと、国語教育の現場で教えられていることが純粋な言語学の知見と違っ ていても、「言語への願望としての言語ルール」について語っているとしたら、単純 に純粋な言語学の知見と違うから、間違いであるというよりは、土俵が違うというこ とになります。

私は、これらは分けて議論した方がいいのではないだろうかと思うのです。分けて、 議論した上で鳥瞰する説明をするということが望ましいのではないだろうか。国語教 育における文法の説明の仕方をどうするのかという古くて新しいテーマではないでしょ うか。こういうことを書いていますのは、二つの理由があります。一つ目は国語学・ 日本語学と国語教育のあいだには不理解という壁があると思いますが、どうしてなの かというのを言語学の立場からと言うより言語政策史・言語観史的に考えてみたらど うなのかということと、もう一つは文というのはどういう制度=フィクションか、言語 研究者と文学研究者の相互議論の場になるようなシンポをこの夏に開催したいと思っ ているということがあり、この二つから考えてみたいと思ったのです。


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