2009年12月31日(木) 新しいテキストの時代がはじまる前に 本年もお世話になりました2010年は20周年の年で、2009年最後の日というわけである。ブログには新しいテキストの時代がはじまるようなことを書いた。ひつじ書房としてはちょっと面白い時代がやってくるのではないかとわくわくしている。 ブログ「2009年は、テキストの極北の時代が訪れた よいお年を」たとえば、突然だが、国語教育というものが再検討されている。日本語教育は、行政刷新会議の仕分けの流れで言うと文化庁からも国際交流基金(外務省)からも後ろ支えが得られなくなるという瀬戸際に立っている。一方、日本語教育時代の必要性は不変だと言い切ろう。とするとどうするのか、どこが支えるのか。もし、文化庁も基金もだめであれば、もう文部科学省しかないのではないか、となると国語教育との連携、合体ということも可能性としてはあり得るわけだ。 一方、国語教育は、中途半端な文学教育になっているために、何だか分からなくなっているから、平田オリザさんがずっと言っているように「言語」と「表現」に分けてしまった方がいいという意見があって、これにはこれで賛同できるところがある。ブログにも書いたように21世紀はテキストの時代であり、一般市民もテキストを読み、発信する時代である。別に小説とか評論とか新聞とかだけではなく、知り合いの書いた文書を読み、タレントのつぶやきを聞き、ショップのツイッターを読む、一方、大枚はたいてやっとのことで入ったレストランの店員の態度が悪ければ、味の音痴でも塩辛いとネットにわざわざ書いてしまうようなテキスト発信は誰でにでも関わりのあることになっていく。 ブログで悪口を書かれたと言って子どもたちの間で殺人が起こったりしてしまう時代である。発話を含めたテキストへの対処する力というのが、単に分かりやすい説明の仕方とかだけではなくて、平田さんが言うところの冗長性(他人が対話するにはすりあわせるというとてつもない無駄が必要)も必要だ。論理的に話せば、理解するというのは傲慢である。論理も1つのやり方に過ぎないから。 となると国語教育の再編成は社会的な要請としても行われることになるのではないだろうか。私は、「表現」だけではなく、「読解・表現」とした方がいいように思う。読者が神様になったけれども、読者はもっと倫理的であるべきだろう。食事だって体調の悪いときや喧嘩した後、あるいは子供を叱った後、上司に批判された時で味は違う。そんな味に感じた私というのも絶対的ではないはずだ。ところが、たまたまその時に不味いと感じただけでどうしてあんなに無責任に料理をけなすことができるのか。簡単に言うと仕返しをしたいという欲望があるということだろう。しかし、読者(客)が公的に発言をする場合には、それは私憤であってはならないのではない。公的に発言するときルールが必要だ。それは、客の倫理だろう。 誤解のないように言っておくとテキスト論、読者論が生まれた経緯、権威主義的な過去の人々やエスタブリッシュメントが正統な文化を決めるという時代があって、それらへの正統な批判としてテキスト主義・読者主義があったことは認めるし、不味いとおもったものを不味いという権利がないというわけではない。しかし、友人に勧められて言ったら期待したほどではなかった、と書くのはどういうこと。これは札幌ラーメンについての食べログを見た感想。それはあなたの責任だろう。しかし、期待して行って、並んで食べて、自分の労力が報われないと思った時、人は仕返しをしたくなってしまう。しかし、それは書いては行けないことだ。 こんなことを言っている人間は今はほとんどいないだろうが、たぶん、そうなるはずだ。とすると言語表現に対してある種の教育的な必要性が問われることになるのではないだろうか。それは道筋抜きに言うと宮台真司氏的に言えば「参加型談合社会」への必要だし、平田オリザさん的に言えば、対話社会への道筋だし、ひつじの本で言うと「市民の日本語」である。そういう方向に動くことになるだろう。とするのなら、ひつじ書房の道はそういうことの準備について、言語研究的に、テキスト研究的に支援するということだ。さらには、言語教育的に。単なる語学ではなくて、社会性を持った言語教育であってほしい。そういう研究を支援していきつつ、それがわれわれの生きる術(すべ)でもある。 ことしもお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。みなさまも良い年をお迎え下さい。 執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。 「本の出し方」・「学術書の刊行の仕方」・「研究書」・スタッフ募集について・日誌の目次 日誌の目次へ
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