なるとするの言語学

2008年12月9日(火)

なるとするの言語学

まずはいわれた仕事がこなせるようになる、ルーティンの仕事がこなせるようになるという段階がある。これを第一ステップとしよう。その時に必要なのは、仕事の流れを知ることと、仕事をこなせるようになることだが、ここで大事なことがある。こなせるようになるだけでは、不十分ということなのだ。この段階で、その仕事をする意味について、感じることができるかということだ。仕事をこなせても、その仕事をなぜするのかという意味が分からないということがある。

こなせても、そのことをする意味がわからないのに「できちゃた」「自分は仕事ができる」と思ってしまうことがある。そういうことは、表面的に器用な人に多いと言えるかも知れない。そつなくこなしたり、取り繕う頭の回転はいいので、言いつくろえたりする。そうしてこなしてしまえるとこなしていく次の段階で、意味を理解していないと、何か問題が起きたときに、それを越えていけない。自分はできると錯覚していると、問題を指摘された時に、乗り越えようではなく、投げ出してしまう。

2年くらいで、仕事を変わってしまう人がいるが、二つのパターンがあるだろう。全く仕事がこなせないで、辞めてしまう人。これは、スキル的な能力の問題。これは困る。しかし、もっと困るのは、自分は出来ていると思って、次の段階を想像できずに飽きてしまう人。こっちは、自己認識ができていない人の場合だ。

本を物理的に作れるということと、創造することは違うのに、作業ができるだけなのに、間違って了解してしまう。そういう時に、きちんとできていないじゃないかと言われた時に、出来ていると誤解していると何でそんなことを言われるのか理解できない。

さて、しかし、問題は2年目を過ぎた頃に起きる。仕事の意味が分かっているか、分かっていないことを分かっているのなら、それはチャンスになる。乗り越えられれば、自信になり、仕事に対するその人間なりの考えが生まれる。しかし、そのチャンスはいつ来るのか、予想はできないが、そのために備えていよう。それを乗り越えられないとナリソコナイになってしまう。

ナリソコナイにならないためには、どうしたらいいのだろう。たとえば、こだわりだ。こだわりがあれば、その仕事をこなすだけではなくて、回すだけでなくて、流すだけでなくて、その仕事は他人事ではなくて、自分のことになる。

そうなれば、次の道が開ける。

こだわりをこだわりとして伝えることができるのか、というのが分かれ目なのではないだろうか。とすると「なる」も「する」も主体的で重要な営みであるというべきなのかもしれない。

ナリソコナイということばは強いことばであるということは理解している。しかし、未熟であることは、すばらしいことではあるが、やはり、どうにかして、何かになろうとしてくれなければ、という思いである。


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