2008年11月7日(金) 2008秋日本語学会参加盛岡市で、方言研究会、日本語学会が開催されたので、参加してきました。私と板東と三井と森脇の4人での参加。私は、盛岡市の土は初めてで、今回、私の頭の中の地理が間違っていたことにこの年齢になって気付かされた。盛岡は東京から新幹線で2時間半弱で、西で言うと京都よりも近いということをやっと認識しました。 日本語学会の初日の講演に先立って主催者の挨拶で野村先生が、言語学関連学会の連合会の話しがでた。すでに日本語学会の学会誌『日本語の研究』で、述べられていて、新しい情報ではないが、学術政策に対するプレゼンスを明確にしようということをスタートしようとしているということだろう。しかし、学会の個々の会員の危機感というと難しいのかも知れない。日本語学会の2日目、吉岡泰夫先生たちの医療のコミュニケーション教育へのことば研究の有効な研究が発表されていたことともあった。日誌でもブログでも何度も述べているが、行革審(?正式名称分からず)の答申で、言語研究所である国研としてやるべきかどうかを見直しする項目として上げられていたものでもある。 そういう意味では、本当はその研究内容自体に関心がない人も聞きに来てもよかったようにも思うが、その意味では関係者に危機感がなかったことが参加者が少なかったことにあらわれていると言えるかも知れない。これは言い過ぎかもしれない。社会に開かれた研究であったのだから、日本語学会としても本当は初日の講演会でやるくらいの気構え、つまり政府の愚かな決定に対する異論として講演の題目としてもよかったではなかったろうか。学術研究の時代性はどのように世の中と関わりを持っていったらよいのか、これも課題だろう。学術研究の公共性と文化政策の問題でもある。アートはアートマネジメントということが、必須のコトという認識だと思うが、学術マネジメントという考えはまだどこにもないのかもしれない。無ければ作るか。 連合会を作るだけではなく、全てではないにしろ社会に関わりのある研究をどう打ち出していくかということも重要なことであるはずだから。それはともかく、吉岡先生たちの研究は、ぜひとも、言語研究として、言語研究業界の中できちんと位置づけされてほしいと思う。医学界に頭脳流出しないでほしい。そのために言語学の出版社として編集者として何ができるだろうか。 学会参加者は両日400人であったということであるが、本を売っていた感覚からの観測としては、展示先に来てくださった人数からすると実感からは遠い。今回、日本語学会向けの出版物がそれほど多くはなかったということも原因であるが、昨年秋の沖縄での営業成績の方が、来客数も、良かった。関西・九州方面の院生の方が少なかったからだろうか。沖縄の時の場合、出展していた出版社が少なくて、場所が会場に近かったことも幸いしていたのだろう。方言に関する書籍も出せていたこともあって、新刊を買ってもらいやすかったということもいえる。その点では、合致した新刊があまりなかったといえる。もう少し先生がたに声をお掛けするようにすればよかった。盛り上がり点が見えずラストスパートをかけられなく終了してしまった。後からの反省。 今回の最新刊は、『対人行動の日韓対照研―言語行動の基底にあるもの』でした。この本は多くの人が手に取ってくれました。日本人と韓国人のテリトリー感覚の違いであるとか、面白い本です。詳細はこちらをご覧下さい。 さて、今回も、盛岡名物を食べました。焼き肉屋の冷麺を食べ、白龍のじゃじゃ麺を食べた。期待したほどではなかった。ラーメンは、予定外であったけれど、盛岡大の大石泰夫先生の情報で行ったたかみ屋のラーメンは期待していなかったせいか、おいしかった。盛岡大学前のとらさんも悪くないのでは。 食事のことを書いているとひつじは何をしているのかと思われるかも知れない。岩手大学の研究室を板東といっしょに訪問し、先生方にご挨拶することができた。ジュンク堂のYさんとも5年ぶりに食事をし、さわや書店フェザン店のTさんに挨拶ができた。Tさんは新文化に記事が掲載されてから注目していた書店人の方。地域に根ざした読書活動を繰り広げられていたのだが、そのご実家のお店自体はたたまれたらしい。さわやフェザン店自体は、文芸書主体の見やすい明るい綺麗な書店であって、言語学書を置いてくれるタイプのお店とは言い難いけれども、あらためて、いくつか一般書的な本をご紹介申し上げよう。ひつじ書房の本が地方の書店にないことは、ひつじ書房にとっての商売の機会を損失するということだけでなく、言語学の知的な成果に触れることができないということであり、学術出版社が学術文化と社会と接点を作り出すべきであるとするのなら、地方都市の大型書店で言語学の入門書が1冊も入っていないようなことのないようにしていくことを真剣に考えることが重要だし、それは責務と言えるのかも知れない。 また、Tさんは実家である書店をたたんでしまったということだけれども、地方都市の人々にも本を読む機会を得る権利があるとするとそれはどのように実現するべきなのだろう。読書というのは、読み書き・批判能力・創造力・起業力の基本になるものであり、そういうものが地域から消えてしまうというのは、人間の生存権・文化権の喪失と言われるものではないだろうか。不思議なのは近代化のプロセスの中で、作られてきた書店という存在が、ポスト近代の中で失われつつあるということだ。 近代化の達成の中で、「向学心」というものの価値が失われたという学習モチベーションの問題、アマゾンなどのオンライン書店によって、読書の習慣のある大人は自由に書籍を手に入れることが出来るようになった反面、これからを担う子どもたちの読書力を身につけるインフラが消えていくということ。小さな問題ではなく、街の書店は、半公共的な存在であるのなら、その半公共的である部分を公的に助成してもよいのではないのか、Tさんの実家の書店について考えて思いました。
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