2007年12月18日(火) 【出版】恐るべき文の力、川上未映子と投げ銭この日誌に関連する日誌→2008年1月17日 【私的】芥川賞、おめでとう、川上未映子さん
『文学界』を買った。文芸雑誌を買うのはたぶん今までの人生で10回もない。今回買ったのは文学界賞を在日中国人の作家、楊逸さんが受賞したこと、その内容が中国人と日本人の結婚あっせんの話であることを知っていたことによる。日本語教育で外国人花嫁の問題は大きな問題だ。さらに朝日の書評で、この作品「ワンちゃん」と川上未映子の「乳と卵」が傑作だと紹介されていたからだ。 『文学界』2007年12月号「ワンちゃん」、面白い作品であった。商売を成功させるとたかりにくる夫と息子に飽いて、離婚し日本で会話のない夫と結婚し、自分自身が結婚あっせんの商売を起こしている中国人中年女性の話で、そういうフコウな結婚からの逃避行と結婚をソクシンして、もしかしたらフコウを増殖させてしまうかもしれないあっせんビジネスを本人が地味なビジネスとしてやっていく中で、夫も夫の兄も世話をしない姑を看取るという救いのない日常の話。日本語教育からの関心から読んだのだが、そういう文脈は感じられなかった。日本語教育の問題を社会化することと関わるかも知れないと思ったが、わたしが浅はかであった。 川上未映子の「乳と卵」も男と女の話である。小説で、あたりまえか。会話体と文章体が混ざり、大阪弁の時制が使われたり、効果的であるし、乳と卵というモノのいろいろあるごたごた。これまた男とのフコウを胸を豊胸手術で変えようと意味のない行為に囚われた母親。その母親と筆談しかしない小学生の女の子。その二人を泊めてあげる主人公(その母親の妹)。その筆談しかしない女の子の日記が、小説の中に挿入されているのも効果的といえる。この川上未映子、けっこう美人でしかも歌手でもあるそうだ。 オフィシャルブログもあって、文章があふれている。その文章が、よい。こんな文章が書けたら。 川上未映子の純粋悲性批判わたしが今日の日誌を12時過ぎの深夜に書いているのは、文章の力について羨望するためだ。もし、文才のある人が文章を書いて、その文章が読むに足りるものであれば、それは繁盛する。そういう文章があふれている場所なら、そこは活気を呈するだろう。この場所というのはサイトと思ってもらってもいい。 これまで、たまたま曲を聴いて、気に入ってCDを買ったり、ダウンロードしたりして、その歌手について気になってネットで検索しても、何の情報もことばも文章もない場合には、そこで終わりになってしまうという経験をしてきた。CDもCDボックスがあるわけではなく、本棚にきちんとしまっておける場所もないから、CDケースだと背がほとんど存在感がないし、いつの間にかなくなってしまう。ダウンロードであれば、最初からモノはないわけだから、名前と曲名がiTuneに残っているくらいだ。そんなのすぐに忘れてしまう。 この体験が、他の人にとっても共通しているのだとしたら、文章があって、読めて、定期的に読みに行けるような文章がなければ、いつの間にか消えてしまうのではないか。とすると文章の力は本当に重要になる。それしか、もしかしたら、記憶に働きかけてくれるものはなくなってしまうのではないだろうか。 だから、文章の力に羨望する。もし、文章力のある書き手が10人いれば、たぶん、どんなビジネスも成功するだろう。つまり、いつも読みに来ること。その人のこと、その人の文章のことの記憶を蓄積していくこと。そのことが、「投げ銭」である。その人のことをいつもこころの片隅に住まわせておくと言うことが、それなのだ。(Googleアラートで投げ銭について公文先生が言及しているのをさっき知ったので、川上未映子と投げ銭を強引にまとめてみた。わたしは、今は、金銭のおひねりよりも、こころの一部に関わりをもってくれることの方が投げ銭だと思っている。つまり、投げ銭は決済方法や入金方法というだけではなく、関係性なのだ。投げ銭について書くのは本当に久しぶり。)
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