学術出版というものは、はっきりとこれが学術出版だという確固としたものは言えない、と思う。ビジネスであるとともに、非ビジネス的な要素があって、たいていの人は、どっちかに所属しているので、説明がむつかしい。需要があるといえるが、需要がないともいえるので、需要があってこそ存在理由があるといういい方は難しい。とはいえ、象牙の塔をあがめているわけではない。
核となる考えがあって、それをもとに結集することができるのか、というとどうだろうか? 21世紀に説明責任が不可欠であることは分かる。王侯が社会を決めているわけではないのだから、人々による支持がなければ存続できない。私自身、やっている仕事についての価値はあると思っているが、ビジネスを儲けることと思いる人や逆に考えることはモノを売ることとは自分とは無縁だと思っている人にも理解しにくい。また、研究はインターネットで公開されればいいという人や、孤高の研究こそが最高の学問であるということとも違う。私たちは、研究と社会のインターフェースを願っているが、といったところで、今すぐ何万人という読者が読んでくれるものでもない。国民投票を行えば、学術書は不要であるという声が圧倒的多数になるだろう。
比較的少数の読者と少数の研究者のための書籍を作っている。もしかしたら、規模が小さいのだから、内部だけで回してしまえばいいという意見も聞こえてきそうである。学会誌の出版と言ったことを考えた場合、会員が会員の負担で、必要なだけ作ればいいのではないか、という考えもあろう。でも、1000人なら1000人ということにとどまらず、プラス100部ということには意味があるだろう。それが、内輪だけではなく閉じていないということなのではないだろうか。たかが、1割程度かもしれない。でも、このスキマ、ゆるみに意味があるということを、主張したいのだ。
商売人は一種の話を聞いてもらえない「サバルタン」と化している。サバルタンということばが使われるのは、フェミニズム論などで、発言者になれないほどにことばを持っている人々から、視野の外におかれている立場の人々を指すことば(「フェミニズムとポストコロニアルの問題圏の交差する地点」(『サバルタンは語ることができるか』みすず書房 紹介文より))であるが、学術出版は、人間の基本的人権でも何でもないともいえるが、さらにアカデミズムとビジネス主義の狭間で交錯して、〈見えない位置〉にいると言えるかも知れない。被害者意識からこう述べるのではなく、学術出版のみならず、〈よい〉商売というものが、極度の盲点になっていると思うからだ。サラリーマン化し、消費者化した現代社会においては。
そう言ったことを顕在化したいというのが、学術出版コンソーシアム(仮)を作ろうという意図なのです。
アメリカの人文系学問における出版の困難さについての訴え
Call for Action on Problems in Scholarly Book Publishing
アメリカの学術出版の協会
Society for Scholarly Publishing
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