編集者というものが、copy-editor的な要素とcomission editor的なものとにわかれるようである。でも、comission editorといういい方は、契約書だけを作っているような感じでどうも腑に落ちない。原稿を拝見して、表記の統一などもするけれども、やはり内容的に少し書き加えてほしいであるとか、ここは余分ではないでしょうかであるとか、ここでの書き方の視点について議論をしたりという言葉面だけではなく、内容に深く関わった文章についても意見を申し上げたいと思う。場合によっては些細なところの軌道修正であったり、字句の変更に過ぎない場合などもあるが、そういうのが編集者冥利と感じる点ではないかと思う。また、いろいろなシーンで企画を考え、その書き手を探したり、興味をかき立てる文章・論文にであって、その人に書いてもらうようにプロポーズするということも冥利である。さらに、そうして原稿をもらうことができて、期待通りに優れた文章であったり、期待を遙かに超えて充実した論文であったりするものを受け取ることができたという瞬間もうれしい。さらに、そうして本を作ったとしても、それが世にでたところで、評価を得ることができた(順調に売れていくであるとか、重版にこぎ着けたり)こともうれしいことである。
一方、うまく行かなかったというようなこともあるわけで、がっかりしたり、落ち込んだり、腹立たしく思うと言うこともある。これらが、編集のプロセスであって、おもしろさということができる。とするとこれは、copy-editor的な要素とcomission editor的な要素の二つに分けてしまうと、そこから漏れてしまう部分が沢山あるわけである。もしかしたら、editorといえばいいのではないかとも思うわけだ。
でも、そういうことができるもは小規模な出版社であるからで、さらには私は経営者でもあるからかもしれない。英語ではeditorというのは主管であるとか、社主のような意味のあるようである。
ただ、そういう立場ではなくても、どんなささやかなプロセスに関わるeditorであっても、その要素。社主的な要素、プロデューサーでありディレクターである要素があるのではないだろうか。この要素がかなり重要だと思うわけだ。
本をただ作っているとか、ではなくて、売れていくことによって、循環していく。常に読者に試されているという要素と何かを表現したい(研究者であれば、研究論文)を気持ちに添いつつ、それをどのように世間に受け入れさせていくか、という軍師的な要素もある。
私はこのために、まずは本を売ることができないといけないと信じている。本を売ること、売れること、売れないこと、お金が入ってくること、お金が出ていくことについて、本の出荷や受注、営業、学会で本を売ること、倉庫で本が減っていくこと、残っていることを体感できるということで、編集者になっていく重要な要素を体得できると信じている。
たぶん、これは大きな出版社では、その人が持っているセンスに依存しているところであろう。頭のよい人は、現場を経験しなくてもある程度予測ができる。紙に書かれた数字を見て、損益分布点を理解することもできるだろう。現場に立たなくても市場が分かるマーケティングの専門家というのは、そういう能力を持っているということだろう。でも、そんなに頭のよくない人は、現場に立つことが何らかのかたちで必要だと信じている。
軍隊のたとえで、あまり気が進まないが、歩兵とゲリラの違いはここにあるだろう。歩兵は命令の通りに動くし、動くべきである。ゲリラは、上官の命令にそって動くけれども、場合によっては自分の判断で撤退したり、逃げたりすることがある。使命と指令を自分で持っている必要がある。編集者というのはそういうたぐいのものではないのだろうか。
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