2006年の大反省は、編集者育成方針の転換 2006年12月22日(金)
2006年12月22日(金)

2006年の大反省は、編集者育成方針の転換

特に過去を振り返って、誰かを批判しようと思っているわけではない。私自身の現在の気持ちと方向転換を行ったということの記録として記しておきたいと思う。私の至らなかった点への反省が主旨である。

編集者育成についての考えが今年変わった。私のこれまでの考えでは、新人の編集者を育てる際に、まず本を1冊作って、本の全体像を掴んでから、細かいことを少しずつ身近な先輩に聞きながら学んでいくというやり方が、編集者も職人的な仕事である部分もあるので、正しい育て方であるだろうと思ってきた。おおざっぱに編集とはこういうものだろうとつかんで、少しずつ完成に近づいていくということで、育っていくはずと期待していた。

自分自身が、まとまって、体系だって教わったことがなく、少しずつ編集に関する本を読んだり、印刷所の担当者(印刷所の社長であったこともある)に教わったり、人が作った本を見て試してみたりということで、編集者としての歩みを進んできた。間違った赤字や結果的に意味のない赤字をゲラに入れて、失敗して、無駄なこともたくさんやってそこから学んだことも多い。DTPをやると自分で、組版の裏側で動いている仕組みが分かってそれで作り方を反省したりもした。20年以上も編集をやっているのだから、自覚していない場合でも、いろいろなノウハウ、経験を積んでいる。だから、「背中を見て学ぶ」までは行かないにしろ、自分で学ぶものだと思ってきたということである。でも、それは養成のやり方としては誤りであるようだ。

私も社長として多忙なこともあり、一つ一つ手取り足取り丁寧には教えられないので、自分で学んでいく力によって育っていくということを期待していた。しかし、これは本当は上司としてやるべきことをやらず、自分が楽をしようという考えにすぎず、きちんとした責任を果たしていないということの言い訳に過ぎなかった。この点をしっかりと反省する。これは数年来の反省であり、今年気がついた最大のことである。きちんと基礎的なことから教えよう。

問題はこうだ。ざっくり作る技術を得て、著者とも表面的にはお付き合いできるようになり、2年もすればそこそこ本は作れるようになる。(以前は入社してすぐ、これまでは1年目から作っていた。)自分なりに印刷所や著者ともつきあうことが出来るようになって、それなりに自信ができてくる。原稿を校正したり、読んだりしている間に、言語研究というものがどういうものなのかを耳学問的に理解し、こういうものだという直感が働くようになり、内容が分かりはじめると著者も知ることができて、企画も立てられるようになると思っていた。これを門前の小僧学習理論と呼ぼう。だが、この理論は失敗で、むしろ大事なのは、まさに育っている時期に放任しないで、十分にサポートすべきであるということである。その時期にこそ丁寧に教えるべき時期であるはずなのだ。

あまり忙しくない出版社であれば、余裕があるので、もしかしたら、自分で学んでいけるように変わることができるのかも知れない。2年もすればベテランになり、仕事も増えてくる。そんな段階で企画を立ててほしいであるとか、編集を担当した著者の先生に次の本を提案してねと言っても、それにはすごい時間がかかったり、結局、できなかったり、困難になってしまう。確かに仕事は多いので、そこまでやる余裕がないかも知れないが、企画を立てること自体、普段から企画力を鍛えていればそんなにたいへんではなく、むしろ楽しいことだと私は思う。でも、得意じゃない人にお願いしたら、地獄のようなものかもしれない。(でも、そういう人は編集者になるべきではない。)

新人の最初の2年間は、かなりたいへんなので、私の20年間の失敗のノウハウは先にきちんと教えてあげた方が、よかったのにそれをやってこなかったということだ。出し惜しみしていたわけではなく、聞かれれば答えていたが、忙しそうにしていれば聞きにくい。教えるのもその都度だと散発的になり、全体像が掴めない。編集者像が統一性のないものになってしまいやすい。また、こういうやり方もあるがこういうやり方もあり得るというかたちで伝えたことも、聞いても仕方がないと思わせてしまう要因であったかもしれない。

さらに出版分野に興味を持っていない場合、経験を積んでも内容について提案できるだけの企画力が育成されないということなのである。門前の小僧学習理論は、その分野に興味がない場合、うまく機能しないのである。仕事はやっている仕事の中で自分の位置を見つけていくという要素もある。最初から、専門分野が好きな人間はいないだろう。好きになっていくのである。だが、なかなか好きになれない人もいる。

内容に対する理解と興味が深まっていない場合、企画は当然立てられない。会社に滞在している期間の長さにこれはほとんど関係ないのである。学んでいるかいないかだ。いきなり仕事にぶち込んで、その中でもがきながら自力でその仕事の専門性を学ぶというのは困難なのかもしれない。

経験を積んでも企画を立てるところまで至らない状況を打開するために新しい方法を考えつつある。社会人として仕事ができること、社会人として学ぶ力があると分かった段階で、専門分野の分野でやっていくつもりがあるかどうかを確認した上(苦難な道を自分の判断で選ぶこと)で、言語学の勉強をいっしょにやっていくこと。さらに、話題やテーマを察知するアンテナ、視点を学んでもらうようにすること。さらに、きちんと説明できるような概略把握力と説明力をつける訓練をする必要がある。

具体的に言うと、現在、新聞を購読してもらい、ことばについてのトピックを探してもらうこと(アンテナ、読解力、速読力)、そこからタイトルを付けること(発想力)、その内容を説明してもらうこと(説明力)を行い。さらに、ストーリーのはっきりした映画を見てもらい、その筋を説明してもらう(ストーリー力、語り力)こと、さらに課題図書を決めていっしょに読んでいる(専門知識力)。これは企画力の基礎を、本作りの基礎が出来たのタイミングで養成されるようにとの考えからである。

これと並行して、本の編集の技術的な面を段階を追って学んでもらおう。できるだけ基礎から順に積み上げていく方針で進めよう。まずは、私の中で積み上げていけるような知識と教え方をきちんと整理して、基礎教育力を自分の中に持とう。ポイントポイントで教えることができるように、短気にならず余裕をもって指導していこおう。ひつじのハウスルールに基づいて、本の体裁を決めること、表記の統一などを行うことを進めよう。この段階では、内容に立ち入ったコメントを付けることについては優先順位としてはまだ期待しない。中途半端な能力でやってしまうと時間ばかりかかってしまう危険性があるから。できるだけ、途中途中でポイントを押さえて指導していこう。疑問に答えるようにしよう。コーチングの能力の開発が必要かもしれない。

そんなことは当たり前のことだと思われるかも知れない。でも、私はこれまではそれをやっていなかった。私が忙しいことにかまけて、新人を丁寧に教えてこなかった。編集という仕事も新人がだんだんベテランになっていくという点ではレイブのいう「周辺的な参加」であるが、自然に学んでいくアフリカの仕立て屋とは違って、適切な教育は必要なことなのであろう。それを行ってこなかったことを自己批判しよう。ひつじは株式会社に組織替えを行った段階から、編集の方法を変えつつある。散発的編集から、組織的な編集に今年の前半に梶をきった。散発的編集であれば、その人その人が好きなようにやっていればよい。無駄な時間が掛かるのが欠点だが、自分のやりたいようにできる。しかし、組織的な本作りに変わるとステージステージの編集技能の内容が問われるようになる。そのためには、きちんと積み重ねていないと空回りしてしまうことになる。

すでに自分のやり方を固定してしまっているとやり方を変えることは、とても苦痛であるだろう。一回習得した考え方、クセ、習慣、ビリーフスを否定し、生まれ変わることはつらいことだからだ。しかも、もとをただせば、そのクセは私がきちんと丁寧に教えなかったことが原因である可能性が高い。でも、ひつじ書房は、次のステージにあがろうとしている。そのためには編集者育成と言うことを真剣に考えなければならないだろう。学んでいる発展途上の編集者は、体系だった技能と知識を学びつづけることのできる「成長する編集者」であってほしい。そのためには全面的に教えるつもりである。


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