3年連続、新村出賞の受賞に思う 2005年10月31日(月)
2005年10月31日(月)

3年連続、新村出賞の受賞に思う

言語学という研究ジャンルに力を注いできて、16年めになってこの時期に新村出賞を受賞できたということはとてもありがたいことだ。言語学の出版社にとって、前人未踏の場所に進みつつあるということだ。本当に喜ぶべきことである。受賞のお知らせをいただいたとき、社員全員で飛び上がらんばかりであった。うれしい。しかし、今回は、3回目である。うれしいということはいっそうだが、逆に責任と言うことを考えたい。

これは、かなりの責任をともなうことになるのではないか。今まで、言語学の出版社というと大修館書店がとても大きな比重を持っていただろう。「た」といったが、過去形ではなく、現在も大きな存在である。『月刊言語』を刊行していること、言語学についてスタンダードな教科書を出し続けていること、(くわえて国語、英語の教科書や辞書を出していること)その意味でもっとも大きな存在であるといえよう。日本の出版の世界では、教科書を出すオーソドックスなメインストリームに位置する出版社があり、それらは老舗の出版社という位置を持っている。かつては検定教科書が、東大系と東京教育大学系と京大系などといった学校の先生のヒエラルキーに基づいていた。高名な先生をトップとして、その中でシェアを分けていた。それに対して東京書籍などが、地元密着作戦で、それまでのヒエラルキーに基づく教科書の市場を変えた。この過程で、教科書を出している出版社が老舗であり、中核であり、本業である教科書の付属物として研究書を出すという構造が、それが変わったといえるのではないか。教科書は教科書として徹底しなければ、過酷な教科書戦争には勝てないと言うこと。研究書に力を注ぐ余力はなくなったということ。光村図書のように、教科書だけ出して、書籍は出さないという方がビジネス的には正しいということかもしれない。

欧米流のアカデミックプレスをひつじ書房は目指そうとしているが、欧米流のアカデミックプレスは、学術書を本業として学術書を出版する形態である。教科書を出しつつ、その関係で研究書を出すという形式ではない。たとえば、ある先生の退官を祝う意味ももっている研究論文集をひつじ書房から、刊行するが、従来であれば、その先生の監修した辞書や教科書を刊行したところが関わるのが通常であったのではないだろうか。そのようなことはなくなった。アカデミックな要素と教科書というものが切り離されつつある。

教科書的なものを出しているところと学術書を出しているところが、別々になってきている。となると言語学の出版社のメインはどこになるのだろうか。学術であれば、ひつじ書房ということになるだろう。では、ひつじ書房は、かつての教科書会社がもっていたようなメインストリーム的なイメージを引き受けられるのか?それは無理である。違うとしたら、どの部分をどのように担うべきなのだろうか?

たまたま、出した研究書が受賞した、ということではなく、言語学の専門出版社として言語学の出版社を目指している中で受賞したということである。教科書に依存しない新しい時代の学術出版社の像を作るべきだ。それはどういうものなのだろうか。

新村出賞に3年連続して受賞して、新しい学術出版社の像を造り出すというとても大きな責任を感じている。

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