東京海洋大学で開催された第二回目のアカデミックジャパニーズ研究会の筒井洋一先生の講演を聴きにでかけた。その中で、高等教育の研究者であるカリフォルニア大学教授のM.トロウによると大学の段階として、エリート、マス、ユニバーサルの段階があるという説が紹介された。ユニバーサル化の段階になると「大学生向けの表現法」のようなコースが必要になるということであった。筒井先生の講演は、大学における言語表現授業がどのように生まれてきたかについてのレビューであったが、その裏付けとして、マスからユニバーサルに移行する時期であるという仮説があるということである。3段階説を聞いていて感じたことは、同じ課題が出版にもあるのではないかということである。(筒井先生のHP)以下は、現在、執筆中の「新文化」の原稿の一部である。
私なりに解釈して言えば、マスの時代には、大学進学人口が増えると同時にエリートを志向しているから、読書欲と読書人口は増加するが、ユニバーサルの時代には大学に行くのが当たり前であり、エリート志向はなくなり、上昇欲としての読書欲や知識欲は減退してしまうのである。マスの時代はエリートという目標があったが、ユニバーサルになると目標はなくなってしまう。 全共闘時代が、大学生になった時が、エリートからマスの時代の境目であり、ここ10年間がマスからユニバーサルへの移り目であると考えると分かりやすいだろう。知識というものの社会的な構造が、大きな変化を遂げつつあり、それに大学はまがりなりにも対応を試みているが、出版の世界はどうだろうか? |
ユニバーサルの時代には、学生が最初から学ぶ動機を持って大学にくるということは必ずしも前提として想定できない。大学の授業の中で動機を作っていかなければならない。いろいろな学生がくるのだから。
学生だけではない。研究者の側も、エリートの時代とはちがった人々になる。学術出版社として思うことだが、われわれは、研究者の方が、研究書の出版の仕方について知らないことを困ったことであると思うことがある。研究の先輩や師匠から本の出し方について教わっているべきだと思うこともある。師匠から本の出し方について指導を受けると言うこと自体が、エリートの時代のことと考えるべきなのだ。様々な人々が研究者になるユニバーサルの時代であると考えると、学術書の出し方について、研究者の方々が知らないことは、むしろ当然のことであると思うべきである。本を出そうという動機は、エリートの時代にはあっただろうが、現在は、いろいろな要因で(たとえば、忙しすぎるとか)そうなっていないこともある。このように考えると出版社としてのわれわれの認識が、多くはマスの時代に形成された意識であることを反省すると同時に現状をそのままで、受け止める必要がある。
だから、ひつじ書房が学術書の刊行の仕方を公開するのも、ユニバーサルの時代には、意味のあることなのだ。また、研究者の方々は師匠から教わっていないわけだし、インターネットの時代になって、状況が大幅に変化していることからすれば、前提となる状況は大きく変わっていることになる。遠慮なく、質問をしていただければよい。ひつじ書房は、われわれのノウハウに基づいて、最大限の協力を行う。学術書の刊行の仕方
「本の出し方」・「学術書の刊行の仕方」・スタッフ募集について・日誌の目次