2003年10月9日(金)
オープンソースということば自体、最初から、マーケティングのために作られたマーケティング用語
CEATECのパネルにでた。Free Standards Group OpenI18N Workgroup議長、理事の樋浦秀樹さんの発言が面白かった。オープンソース運動の原理主義者は、オープンソースの理想郷についていうが、それでいきていけるのか。シリコンバレーでは、スタープログラマーたちが何人も失業している。本業で食っていって、自由なプログラミングをするということは現実的なのか、「ソフトは無料で、サービスで対価をもらえばいい」というビジネスモデルは、プログラマーはプログラムを作りたくて、プログラマーになったので、サービスをしたくてなったわけではないという点では、そもそも、このことばはスローガンたり得ない、矛盾したものではないのか、とのこと。
オープンソースの世界は、霞を食っていくというのが普通かと思っていたが、現実的で常識的な発言をはじめて聞いた。オープンソースということば自体、最初から、マーケティングのために作られたマーケティング用語なんですということばには、驚いた。逆に広めていくためには、そんなしたたかな政策も必要なのだろう。マーケティング用語だとするとそれを広めていた山形浩生さんなんかはどう思うのだろうか。NPOにもマーケティングが、あるわけだから、マーケティングがあることは別に悪いことだと行っているわけではないことを念のため付け加えたい。さらに、マーケティングリテラシーのようなものも必要なのかもしれない。
公共性やオープンということばは、本当の意味では実際に実現しているとは言い難いにもかかわらず、広報的には価値を持つと言うことである。本当の意味で公共性と公開性を求める側が、もっと上手に使うべきなのだろう。これは課題。
樋浦さんは、ソフトがフリーだというのなら、アメリカの場合、高速道路はフリーなわけであるが、同様に公共的な財政を投入すべきだと言われた。「知識は公共性が高いから、それに対してアクセスは自由に行われるべきだ。そのためには、公共財を作るプロセスは、経済的にも仕組み的にも支援されるべきだ」というのは筋の通った議論であると思うが、多くの場合「知識は公共性が高いから、アクセスも公共財を作るプロセスも、無料であるのが当然である」となってしまうのはどうしてなのだろう。
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