2003年7月25日の日誌 ひつじサロン第2回目

2003年7月25日(金)

ひつじサロン第2回目 外資系での働き方

ひつじサロン第2回目は、名塚さんと木下さんをお招きしての「外資系銀行での働き方」という話。おもしろかった。木下さんは、日本の金融機関にもつとめていたが、比較すると日本の金融機関は、お役所的な体質であり、成果や実際に仕事ができることというよりも、組織の論理に従っていることが優先されてしまっているという。たぶん、これは高度成長時代のがんばれば、実際にがんばったなりの実績がでて、疑いをもたれなかった時代の名残なのだろう。しかし、これは自分で仕事をするという仕事の意義はなくなってしまう。先例を守ることがもっとも優先されてしまうと、仕事ではなく、その組織に忠誠を尽くすことが純粋に尊ばれてしまう。外資系銀行は成果が問われるという点では、厳しく、今年は年収5000万で翌年は首を切られているというようなことすらありえるが、専門性を発揮することができるということ。

エピソードとして、銀行員は連続20日の休暇を取ることが、法律で義務づけられており、これは行員への福利が目的ではなく、おかしなことをしていないかを確認すること、その人がいなくなっても仕事は回るのかということを検証するためであるという。休暇をきちんと取らない行員のいるとそのこと自体も監査のチェックの項目になるということである。

仕事の実質があり、その成果によって、評価されるということ。金融という世界は、それがもっとも明白に見える世界なのだろう。実際に、経済的な目でいくらの冨を創出したかということが目に見える。意味の曖昧さはない。経済的な価値が隠しようが無くはっきりと見えてしまう曖昧さのない世界で、日本の功なき年功序列が許容されてきたということは不思議であり、耐えられない曖昧さだ。私は、金融機関にはいるという可能性は、まったくありえないことであったが、私であってもやめてしまっていただろう。

一方、本質的に曖昧さの存在するような製品や作品を扱う場合は、別のことがあるのかもしれない。曖昧ではないということでは、ある個別の貨幣自体が、貨幣以外のもおに変化して20年後に大きな価値を生むと言うことはない。今は評価されていない何かが、急に10年後評価を受けると言うことは貨幣の場合はないだろう。もう少し、具体的に言えば、ゴッホの絵であれば、今は誰も見向きもしないが、30年後に評価が高くなると言うことはあるが、貨幣の場合にはない。今日の100円玉は明日の100円玉とは経済的なかちは違っているが、貨幣は貨幣である。今日の99円分の価値しかなくなっているかもしれない。しかし、いったん書き終えられたゴッホの絵は、今日も明日も同じ絵画である。経済的な価値が変化し、単なる色のぶれたおかしな絵から、芸術と呼ばれるようになるためには、何かが必要だ。

つまりなにを言いたいのかというと、<あいまいなものの場合>、仕事自体のスキルが高く、成果をあげるということも評価は簡単ではないと言うことである。評価をすべきではないということをいいたいのではない。ダイナミックに変化していく評価のあり方が可能であるべきだと思うのである。

その一方で、貨幣や経済的な価値という抽象度の高いモノを投機していくということの、哲学的とでもよびうるような精神的なストレスには想像を超えたものがあるにちがいない。

次回は未定。

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