そのつもりで余は、この文章を時々少し宛こうして書いているのだが、ど こにどう、月日の区切りをつけることも出来ないのだ。滝との会話をこんな 風に挿入はしているが、悉くがボーッとしていて後先きが解らない。夢も混 っているかも知れない。夢の相手までが滝だ。
もう蜜柑の収穫も済んで、丘も畑もひっそりとしている。稀に、畑に人影 を見かけると滝だ。余は、冬の持病である散歩の出来ない病気が出始めて、 起きている間はここの窓に凭っているより他はない。
どうも実際では、滝は余の前では殆ど言葉を発していないらしい。そうし て見ると余は、余程屡々滝の夢を見ているだろう。こうして書く程のことだ から夢の気もしていないのだが、どうも、彼の顔だけは始終目の先にあるの だが、はっきりとした彼の言葉は、こう考えて来ると、無い。若し、そうだ ったとすると滝は、この頃はどんな人間とも言葉を交えていないことになる。 −−風の吹き荒んでいる木枯の丘で、相変らず熱心な凧上げをしていること が多い。
滝との会話を書き記していると、たしかに彼が云ったのには相違ない筈の 言葉でも、悉く遠い囁きを余が勝手に近づけしめているかのようになって、 彼に対する余の無理解を余自身が勝手に掘り下げて行くような気がすること もある。言葉を要さない何か別なものが余等をつないでいるのだろう。そう だ、矢張り余は、夢の中で彼と語っていたのではないのだ。云った言葉が次 の瞬間に夢のような気がするだけなのだ。日誌を怠り過ぎたまでなのだ。
「一纏めに書くとなると相当骨が折れるだろう。」と滝は、まるで余を作 家として扱うかのような同情を寄せたこともあった。
「僕の生活は、君のそれを眺めているだけのことで、そしてその君の生活 がまた……。」と余は何となく息詰る思いに打たれた。
「強いて不自然な生活をしているわけではないんだからね。」
そんなことを聞くと余は、何というわけもなく声をたてて空々し気に嗤わ ずには居られなかった。余は、ひとりでにテレてしまったのである。
その後間もなく彼は、書斎の窓を開きの硝子戸に換えた。屡々光と影のこ とに就いて余に謀っていたが、取りあえず窓だけを改めたのだろう。彼の理 想の居室は、一言で云えば写真家のアトリエ風のもので構造に就いては一昼 夜詳細に語り明されたことがある。あの窓は急拵えに改めたので、勿論彼の 云う光線の屈折などには何の注意も施されていない、もとの窓枠を取り払っ て、三方ともを唐紙大の硝子戸に変えたまでである。彼が云っていた、内に 居て、野に坐っている気分? そのくらいは味えるだろう。ここから見ると 水族館の水槽を眺めるように、彼の一挙手の動作までが手に執るように見え るのだ。ただでは見えないが、余は自分で組立てた筒型の望遠鏡で、毎晩飽 かずにそこを見ているのである。彼は、余がこうした展望を行っていること は知らないらしい。彼は、相当の秘密家で蔵書を他人に見られるのさえ嫌い なぐらいで、今までは余だって滅多に彼の書斎へ入ったこともないのだ。然 し、余の窓がこれ程の距離だから、ここからは見えぬ気でいるのだろうが、 彼のお陰で徹夜の習慣をつけさせられているこの頃、これ程のことは許され るだろう。許されなくても、こうでもしていなければ夜の過しようが無いの である。
この頃こそ余は、滝の生活全部の傍観者である。
(註。どちらも蜜柑の段々畑にある家なのだが、Bの方は丘に近く、滝の 方は、その真下で海に近かった。)
云えば、即座に改めるだろうし、そして折角の創作気分を台なしにさせて は気の毒な気がして余は、彼も亦そのことを口にしないのを幸い苦しさを堪 えて秘密にしているのだ。彼の仕事が終ってから、それとなく注意するつも りでいる−−ああなっている以上は、余はどうしても彼の部屋を覗かずには 居られないのだ。因果な気がする。
風のない静かな夜だ。外は余程寒いだろう。滝の窓は明るい。滝は、宵の うちから寝て、二度ばかり眼を醒したが、煙草を喫しただけで直ぐに寝入り、 昏々と眠っている、満々と明るい電灯の下で−−。もう間もなく夜明けにな るだろう。余も、そろそろ眠くなったが、眠りに就いたところを起されるの は堪らないから、もう暫く執筆を続けよう。 (註。書斎を寝室に兼ねてい る滝は、窓をあけて以来、仕事を終えるとBの部屋に来て寝る習慣になって いた。彼等は枕を並べて明方から午少し過ぎまでそこで眠るのであった。カ ーテンを取りつけるまで、君の寝室に寝せて呉れと滝がBに頼んだのである。 滝の部屋は、終日陽が射しているからだ。Bは遠慮勝ちに時々カーテンのこ とを滝になじったが、彼は何となく言葉をそらして気分家らしい眼つきをし ているばかりだった。)
「仕事は少しは捗ったかね。」
余の部屋に入って来る滝の顔を見ると第一に余は、こう訊ねるのが常だっ た。初めのうちは、滝の返事のあまりな空々しさに滑稽を感ずることがあっ たが−−例えば、余がこう訊ねると彼は、真面目な態度で、
「調子が出て来た。昨夜などは、宵から今までペンを持ち続けて二十枚近 く書いた。」などと云う、宵から今まで寝室にもぐっていたにも拘らず−− いつの間にか余も滝と同じように何らの空々しさも感じなくなっている。騙 されているという気もしない。余のこの気持ちは、どういうわけか余自身に も解らないのであるが、余も亦、至極生真面目な調子で、
「合計すると、もう六十五枚になっているわけだね。」と、真実指を折っ て数えた。
「そうだ。案外早く運ぶので……。」
「窓をあけたのが好かったのかしら?」
「そんなこともあるまい……僕は、未だ昂奮の余勢が残ってもう少しの間 は眠れそうもないから君は先に寝給えよ。」
「じゃ、失敬。」
「失敬。」
どちらも何の不自然な様子もなくこんなことを云い合いながら安らかな眠 りに就くのであった。先に寝ろと云っていながら彼の鼾声を余が先に耳にす ることの方が多い。
滝の部屋には予想外にいろいろな人が出入りしている。余は、硝子戸に変 るまでは夜中は絶対に滝は孤独だとばかり思っていたのだ。あれでは、時間 的に見て彼がペンを執る間は絶対に無いと云って差支えない。誰か知ら他人 を相手にしていない時は、一切寝台の上で、眠っているか、さもさも呑気そ うに煙草を喫しているばかりなのだ。そして、明方近くになると、起きあが って余の所に来るのである。小径をトボトボとたどって来る彼の姿が、蜜柑 の木陰に隠れる時の他は、悉く彼の動作は余の視野中に在るのだ。
「調子が出て来たのは何よりだね。僕は、君の新作を読むのを楽しみにし ているよ。」とも余は云った。
「有りがとう。是非読んで欲しいね。」と彼は慎ましやかに云っている。
「あと何日ぐらいで脱稿?」
「四五日のつもりだが、はっきり解らない。」
書き始めたら一気呵成にやり出すに違いないのだ、余はそうも思っている のだが一向滝は机に向おうとはしない。
このような夜ばかりが続いている。