匂いと音とリズムの世界だ
今日はこの前(3.30参照だっけかな?)見本が届いたと言っていた「複合動詞」という本が箱にもしっかりおさまって完成したというので、小石川植物園前の田中製本まで取りにいった。取りにいくのを機会に、松本さんは、わたしと阿達さんを出版界社会「化」見学(社会科見学みたいだ、と言ったら、違います。実地研修ですと言われたので、いや「科」じゃなくて「化」という字で書くんですということで、こういう行事名になった)に連れだしてくれた。この本を担当してくれた田中製本の方がいろいろなところを案内してくれた。みなさん、とても親切にまだなんもわかっとらん、二人にいろいろ教えて下さいました。ありがとうございました。
いや、驚いたなあ。なんというか、本はモノなんだなあ。それと人と機械なんだなあ。すごいですよ。一本のレールにのっかって、すごい速さで、始めはただの紙を切って折っただけのものが、がちゃんがちゃんという音と共に最後は本になっているんですからね。ちょっと復習をかねて、たずねた部屋を挙げてみると、印刷されてきた紙を切る部屋、折る部屋、それから「上製」(ハードカバー)に仕立てる部屋、「並製」に仕立てる部屋、雑誌をつくっている部屋、スリップを印刷している部屋。どの部屋にも、足を踏み入れるごとに、それぞれの匂いと音とリズムがあって、あの動的な感じと、本を書いたり読んだりしている人の世界の感じとではかなり違うなあと思った。
機械も、40年前から動いているというのもあって、何かとても一生懸命動いているという感じのものばかりでした。人が手でやることを、そのまま忠実に機械として組み立てたというもので、大きな紙を切る、折る、糸でばらばらの紙の束を縫う、目次に合わせて紙を組み合わせる、しおりを入れる、背中にのりをぬる、ボール紙の背をつける、とれないように何度もぐいぐいっと押す、カバーをかける、帯をつける、ハガキとスリップをいれる、このほとんどが3つ〜4つの機械を経ることでできてしまうのです。いやあ、もっと落ちついて書くべき内容なのですが、忙しいから無理かな。
昔、東大の博物館でやっていた学問の100年展というような展覧会で、どこかの外国の人が考え出したネジの回転のモデルというのにさわってみたことがあって、それをさわった時、その展覧会はあまり面白くなかったのだけど、こういうこと一つ一つでようやく今の世界は組立られておるんかい、と思ったら、今は亡きその発明者によくできましたとか一言くらいは言ってあげるべきだとは思った。製本の機械を見ていたら、そのことを思い出した。こんな「具体的に動く」機械は誰が発明したんじゃいと思った。一つつくるだけで、相当な人が本を作るという人の動きを研究していることがわかって、それに関わった膨大な人の気配がなんとなくこわく感じられました。その機械の勢いは、あなたを社会化してしんぜましょう、という雰囲気があって、妙な気分になりました。
一人の世界でじっくり考えられてそろそろ書き上げられた本でも、 悩みに悩んで我孤独って感じの本でも、あのリズムと音と匂い(インクとか接着剤の)のなかで「作られていく」ということを著者の人が知ったらちょっと不思議な感じがするだろうなあと思った。経営に関する本か何かで、挑発的な感じのタイトルの本が、がちゃんっがちゃんと本にされていくのを見ていると、その挑発的にちょっとえばった感じのタイトルがなんとなくかわいらしくかんじられました。
というわけで今日のまとめ。製本会社は、紙の束を綴じるところ。(賀内)
本というモノ
本はひとおもいにつくられる。機械をセットしてしまえば(それに大変な時間がかかるらしい)、300部だろうが10000部だろうが一日でつくってしまう。昔は手作業だったから時間がかかってねえ、と製本所の方はおっしゃっていたが(もちろんそうやってつくられた本も確かに味わいがあって大事に両手で抱えてしまうようなものではあるのだが)、あまりにもあっというまに本ができていくのを目の当たりにして、すっかり圧倒されてしまった。出版社で編集や出荷の仕事をしているのとは全くの異世界に来てしまったようであった。
これまで私は、本はひとりの著者が書いた一冊の本、という感覚でしか本というものを捉えていなかった。読者対作者。それはそれで間違えてはいないのかもしれないが、そこに至るまでの過程を想像することができていなかったように思う。そのベルトコンベアーは、薄い紙の束が重ねられていくところからはじまっていた。頁ごとにまとまった形で端が裁断され、整えられる。糊がつけられ栞がつけられ花ぎれがつけられ表紙がつけられると、アイロンをかけるように(本を開きやすいように)背表紙の脇にみぞがつけられる。Finish!である。ほんのりと暖かい。
工場用の機械というものは、実に細やかである。背表紙に糊をつける。次のローラーでは、つけすぎた余分な糊を落とす(糊を適量にし、剥がれにくくする?)。細い紙の切れ端を、裁断するそばから大きな掃除機(?)で吸い上げていく。集められた紙屑は、圧縮されワイヤーでくくられ業者に引き取られる。ごつくてせわしないが、おそらくは人間よりも繊細だ。少しでも調子が悪ければ止まってしまう。紙が重なっていないか。糊の温度はどうか。絶えず見ている人がいないと滞ってしまう。
本というと、どうしても観念的なイメージで接してしまう。あまり私はモノにこだわるほうではないのだが、何やら今日は「本はモノでもあるんだぞ」と根拠らしい根拠もないまま強く感じてしまった。本は中身で選ぶ。当然。でも私は、文章は書けないがとてもすてきな話をしてくれる人も知っている。本という形にこだわるのであれば、なぜ「本トイウ形ヲ愛シテイル」のかをちょっと考えてみようかと思う。今手元にある本という物質が、どうやってここまでたどり着いたのか。書店にいく。取次へいく。出版社へいく。製本所へいく。折屋さんへいく。印刷所へ行く。紙屋さんへいく。・・・それから?ロットに巻かれたクラフト紙が、倉庫のあたりにひとつ置いてあった。
段ボール会社に勤めていた父は、よく日曜日に工場の様子を見に、姉や私を連れていってくれた。倉庫で板状の段ボールを何枚も敷いて、なぜか必ず真っ先に線路を描いて、小さな街をつくった。ロットがいくつも積まれていて、さわったら崩れてきて、押しつぶされてぺしゃんこになってしまうと、冗談のように父がいっていた(今思えば危険な遊び場だったのかもしれない)。だからというわけでもないが、紙の匂いはよく知っている。紙に愛着がある?しかしそれだけの理由で「本」にこだわるというのも・・・。ここで答えを出せることではありませんでしたね。ふう。お世話になった製本所の方々、折り屋さんの方、ありがとうございました。今後もよろしくお願いいたします。(阿達)