ひつじデジタルでしいり絵日誌 |
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ランチ:韓国YMCAでコムタンだ |
デス・ゴッツァンダーネK |
新弟子人生日誌 1999/2/23 美しい本の話「世界は整然と美しくあってほしい」弟子願えば、師曰く「美は未だまとまらざる混沌のなかに」という会話はなかったと思いますが、先週1週間の自分テーマは↑こんなかんじでした。自らの四半世紀のひよわなビガクを試される日々でありました。なんの話かというとレイアウトとか章立ての話です。 今、初めて「本(言語学の専門書)」をつくるという作業をしています。25年くらいの間に一人の人が「複合動詞」というテーマ(このことはまた書こう)の下に書いたたたくさんの論文を一冊の本にするのです。そこで課題となるのが、異なる時期に書かれた論文をどこまで統一したフォーマットに納めるかということ。私はいっこのすっきりした本の形に整えたくて、各章の見出しを時間を忘れていじくるのですが、全体の作業量からしてバランス欠いた行為なのです。松本房主からはそれは全体から見てこだわり処じゃない、というメッセージを受け取ります。ようするに私の効率の悪さが本来のテーマなのですが、けれどもとにかく頭のどっかには、美しいレイアウトと構造をもった本への強いあこがれがあるから、なかなかこの「整えていくこと」を諦めきれない。 だってさ、だって美しい本ってすてきですよん。別にアートブックとかじゃなくて、どんなジャンルの本でも、レイアウトや見出しに、見えないのに、いるなあという編集者のイッカンした意志が感じられて、書いた人が何をシンプルにいいたかったのか、その体裁からわかるような、感じ。そういうのいいなあってうっとりしちゃう。最近ではみすず書房の「ウンベルト・サバ詩集」、美しかった。レイアウトは愛だっ!と思ってしまった。 でも、見出しとかレイアウトとかに一生懸命になっていると、「本」って嘘であり、ロマンティックなフィクションだなあという感じがしはじめるのも本当でした。お芝居をつくっているような。本当は、それらの論文は手探りのなかで、なんにもよくわからないところからだんだんようやく書きあげられていったわけですから、何か「本」という形で、整った思考が存在している、というわけじゃないわけだ。だからそれらの思考を世に出すということ以上に、その痕跡をけして一個の完成したもののようにしていくのって、どこまで意味があるのか、そんなことしてるまに、考えることの続きをしたら? という考え方、あると思う。そのロマンがすてきな場合もあるけれど、当てはまらない場所もある。 ずばり、このあたりのことはプレビューで読んだ房主の「ルネッサンス・パブリッシャーズ宣言」の内容を頭に置いて書いていて、上の考えはその本の自己流解釈による受け売り+感想なのですが、今度の本に一冊携わってみてそこで書かれていることが発想された状況がちょっとだけ分かる気がした。たとえば今のひつじのコンディションで、レイアウトそのものにそんなにこだわることはないという考えの、背景や。あの本を読んで、あたしゃ動き続ける美しさ、形にならない美しさのようなものへの、新しい美学を勝手ながら感じたよ。 あ、でも、本当に書かれたものをいたわるというのなら、そこで言いたいことが誤植なんかで間違って伝わるようなミスをしないというのが基本だよな、と今思いました。そうか、そうだよな。よし、今度はそのあたりガンバロ。 |
マル房のヒトコトいやいや、私が枯れすぎているのです。私ではなくて、賀内さんに担当して本を作ってもらえて、この本は、幸せなんじゃないかな、と思います。青い時代の本の作り方というのは絶対にあるわけで、枯れ人間のことばは、話し半分に聞いていれば、いいと思います。 |
ハンコ |