あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。昨年は1枚も賀状を書けませんでした。失礼をお許し下さい。
今年の抱負は、96hansei.htmlです。
勝手にクロネコブックサービスの英語版の価格表を作ってひつじのホームページの中に置いてしまった。問題はないこともないと思うけれども、強引にやっちゃう。注文はクロネコのホームページへどうぞ!
年度末になると文部省の助成金で行われた研究報告書が出される。新しい研究、先行的な研究、実験的な研究が行われているのだが、問題はその報告書の流通にある。報告書に関わった人の知り合いには配られるが、あとで必要な人が探しても入手できないことがおおいからだ。研究の成果が共有されないのなら、研究自体が知られないことになり、大きな無駄がここでは行われていることになる。それなりの予算も使われたわけでもあり、もったいないことだ。
本の形にする。つまり、商品にすると言う手もある。だが、問題が年度内に予算が使われなければならないと言うことだ。報告書は、実験的な試行錯誤が重要なのであり、早いうちに公開されるべきであるから仕方のないことでもある。そのまま本にしたとした場合、商品には少ししにくいところがある。簡単に言うと早く売れてくれないと言うことである。必要なときに気になって読むというものであり、出たときにいっせいに購入してくれるものでもない。販売時期が散発的だと、売るのにコストがかかってしまう。
実際にいくつか預かり雑誌というのをやっているが、在庫を確保しておくのも場所が必要であり、多くを在庫できないから離れたところに置いておくと、注文に対応しきれないこともおきる。
今考えているのは、アクロバットを利用したCD-ROM化である。報告書を、一つではなくて、20個くらい集めて、1枚のCD-ROMにしてしまう。許されるのなら1万円くらいで、売ることもできる。年次刊行物にすることも可能だろう。これは、今年いっぱいで企画として成立させられるように、先生方に相談してみようと思う。来年からは、何とか対処が可能と言うことになろう。
それまでは、報告書を作られる方は次のことに注意して置いてほしい。
電子化するということとそれをディスプレイで読むことも考えると
MacやWindows95やTexなどで、ポストスクリプトデータにすることの可能な状態であることが望ましい。パソコンに詳しくない人のために言い換えると、ワープロ専用機は使わないことが原則ということです。
ワープロ専用機だった場合は、スキャナで読みとることになりますので、うまく行かないと、単なる画像のデータになります。
ディスプレイで読むと言うことも考えるとB5サイズではなくて、A5で作ってほしい。
特殊なフォントを使う場合は、その旨分かるようにしてほしい
スキャナで読みとることを考えるとチェック用と読みとり(裏表)に2冊計3冊あるといい
これについては年度内に企画書を作成することができれば言いと思っている。
別に今日というわけではないのだが、三省堂の1階の守屋さんのお力で一昨年のフェアの第二弾として、2月1日から20日まで、小さな出版社のフェアが行われる。前回のフェアもそれなりに成績を上げたということだろうか。まことにありがたいことである。前回はJRお茶の水と地下鉄神保町の構内に広告を打ったが、今回はそこまで手が回らない。何か有効な宣伝告知方法はないだろうか。ちょっと考えてみたい。
岡茂雄の『本屋風情』によると、昭和5年の不況の時に、岡茂雄が岩波茂雄と話をしている時に、「今は教科書とか、辞書とか、あるいは講座ものとかに力を注いで、単行本はしばらく手控えるより仕方あるまい」と言われたということである。講座ものは不況を乗り切るための必要なアイディアだったということだ。
しかし、それにしても今年は岩波は講座ものが多くないか。昭和5年ということは、1930年である。私の父の生まれた年だ。60年以上、不況体制を続けるとは、たいしたものである。講座が多い。言語学やら文化人類学やら、単行本をこつこつだしている出版社としては本当に困ってしまう。我々は少ない人数でやっているため十分な催促も出来ない。原稿があがったところから、引き上げていくなんてことはできやしない。催促・原稿取り競争で負けるのは当然である。岩波書店は、戦争が、終わったのに戦時体制を続けたスターリンのような体制だいえよう。もちろん、これは悪意のこもったたとえである。種を蒔く人というより、種を刈り取る人だと言って間違いはない。
私は先週、二晩事務所に泊まった。再び、戦時下体制に戻ってしまった。おかげで仕事は進んだし、Pagemaker6.0Jで、句読点を全角に固定する方法が見付かった、と思う、たぶん。
昨年末から、国民金融公庫に借入金を申し込んでいたが、オーケーが出た。もっとも、500万円から350万円に減額されてしまったのだが、これで何とかみっともないことにならずに年度内を乗り切れるであろう。お祝いにうなぎをスタッフみんなで食べた。ほっとした。よかった、よかった。
さて、必要があってInternet Explorer3.0をダウンロードした。メールをマックのない人に送ろうとしているのだが、90Kもあるせいか、Netscape3.0で送っても文字化けになってしまう。IEなら、そんなこともあるまいと仕方なくダウンロードしたわけなのだが、驚いた。この日誌のページが日本語として認識されなかったのである。BODYが始まるあたりに、日本語が入っていないと日本語の文書だと認識してくれないらしい。IEでアクセスして下さっていた方々にはお詫び申し上げる。これからアップするときはIEでもちぇっくするようにしたい。
NTTのサービスであるOCNによって画期的な価格破壊が行われることになるが、ひつじ書房でもサーバーを持って、独自の展開をしたい。まあ、そういう時期にさしかかっていると思う。できれば、4月ごろから開始できるようにしたい。
書評や書籍の検索に関するホームページをまとめてみようと思う。とりあえずあちこちから切り張りしてきて、試してみよう。その試すページ自体もホームページに上げておく。その方が便利だから。紹介文は元のままで、私の物ではありません。近日中に、自分の文に直します。
これは、ニフティのFBOOKCに書き込んだものです。呼びかけていますが、どなたからもコメントはつきませんでした(25日現在)。
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1月18日wrote
ひつじの松本です。みなさん、どう考えますか?
出版ニュースを、定期購読しているのですけど、つい先週、とりに行ったばかりで、読んだのは昨日。
出版ニュースの上旬号、青山ブックセンターの浜口さんの「流通」という連載。昨年の12月号は、題して、師走の夢「近未来の書店像」。私はこの文章に感激しました。その書店像に必要なものとして、3つを上げている。
一つは、新刊情報を出版社のホームページと連携しつつ、データベース管理ができること。
二つめは、知的空間(アメニティ)の創造。
三つめは、レファレンス機能。書店人としての専門知識とコンサルタント的な
役割を果たすこと。
そして、この三つを実現するには、人材の問題が重要である。その人材を育て<繧ーることが重要である。
という内容である。今の時代に、本当に求められてるものであると同時に、日販などが、そもそも社員ひとりであとはアルバイトで、自動補充システムに依存ようなものを勧めている現状では、その実現はなかなか難しいと感じてしまう。一冊あたりの単価を下げようと大手出版社はしてさえいるし、手間のかかる知的な空間にふさわしい本を扱ったからといって、大幅な売り上げが増加するわけでもないのであれば、人材の育成・確保も困難と思えてしまう。
パソコンショップは、原価そこそこのものとそれなりに利益の出るものを組み合わせて売っているし、そういったことが出来るだろうか?
みなさま、どう思われますか?
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たぶん、浜口さんのいうところは、かなり理想だということだろう。でも、実際に私が行きたい本屋さんがあるとすると浜口さんのいうような本屋さんだ。本に対する知識のないことをありませんと答え、調べる方法も知らないような書店員ではない。様々な読書家の欲望(知性と言っておこう)に対応できる書店員という人材をこそ求めている。売れない本を作っている版元からすれば、本の探し方を十分にオリエンテーションできる書店員がいてくれれば、と悲しくなることはしばしばだ。しかし、重要なのはそのような人材を、確保できる経済的な余裕を本屋さんは、もっているだろうか。
そのために必要なのは、マス経済とは違う論理であり、システムである。現在の経済は基本的にマス広告→マス消費といったものにさせられている。それ以外の生産行動も消費行動は、マイナーになってしまい、ないものと同じことになってしまう。それ以外のシステムを作らないとこのままではたちゆかない。
その一つが教育である。マスメディアは、マス広告の論理の中にある。どう生きるのかということより、どう消費するかということしか、放送されない。それは、消費によって経済が成り立っているからだ。しかし、それだけではすまされないこともある。消費だけでなくて我々は生きているからだ。そのためのテクニック、生きるテクニックは、もう少し微妙なかたちでしか伝授できない。その内の一つが「ものをつくること」であろうし、「本を読むこと」であろう。これらの重要な文化的なトピックを、消費文化に対抗して存在させるにはどうしたらいいのだろうか?
こたえの一つは、メセナであろう。パトロンということだろう。
学校が解体しつつある。教室に座って、先生の方を向いて授業を受けているというスタイルは時代遅れのものになっている。また、子どもよりも、老人が増えています。生涯教育とかいうことも叫ばれている。
学校で受け持たない「教育」はどうなるか? たとえば、パンの作り方というカルチャーセンターがあったとして、そこに出かけていって、パンの作り方を勉強してもいいわけだ。政治の勉強なら、学校の中で、教科書だけではなくて、市議会に行って傍聴してもいいはずだ。それから、本の読み方、探し方はどうでしょうか? 学校の先生に習うよりも、図書館やあるいは本屋さんの人に聞いたり、そこに常備されている端末で、検索してもいいのでは? 本を読んで感想文を書くなんていうのは、どうも時代遅れのようだ。
私は21世紀には、社会全体のシステムが全体に変化しているでしょう。書店も、20世紀の本屋さんと違うでしょうが、本屋さん以外も、いままでのようではあり得ない。義務教育、高等教育、老年教育の中身も大幅に変化し、今までの小中高の建物の中で教育が閉じられて行われていたのとは異なったやり方となると思います。
社会の中で、子ども、青年の教育が、有効に行われないければならないということ。そして、そのコストの支払い方法も確立しなければならない。
パンの作り方ですが、いまでは公民館で先生を呼んで行われます。でも、小中の子どもの3分の1がパンの作り方を知りたいと思ったら、公民館は入りきれないし、講師も呼べません。だから、公民館ではなくて町のパン屋さんでやればいいのです。一定の人口に一定の数の手作りパン屋さんはあるでしょう。で、その授業料をどうするかというと、子どもはクーポンを持っていて、どんなところで、勉強してもいいが、授業料としてそれを習った人に、上げるわけです。パン屋のご主人は、そのクーポンを、市役所に持っていって、お金に換えてもらいます。
私は、いま学校で行われている授業の3分の1は学校外で行われてもいいと思っています。その人件費などが浮いた部分プラスαを、そのクーポンの予算にする。
これが優れているのは、山崎パンをただ、並べているパン屋さんではなくて、地域に根ざしていておいしいパンを作っているパン屋さんを助けることが出来、また助成することが可能だということです。
基本的にはこれを本屋さんでも同じように行うわけです。子どもは感想文を書かされる心配のない本屋さんで存分に本を調べ、また本というものがどういうものなのかを知り、本を買います。そして、そのリファレンスと助言に対し、クーポンがわたります。(消費行動自体をカリキュラム化すべきでしょう!)
こんなことを考えた前提として、学校が解体するだろうということともう一つ、市民の文化的なものを向上させるということに今は助成金がでるということがあります。たとえば、ある20人強の劇団員のいる現代演劇のグループは、国と地方自治体から年間かなりの助成金をもらっています。これは、その演劇によって、文化的な何かの向上が市民にもたらされたということですが、十分なリファレンスの能力がある書店は、市民の文化的な何かを向上させることは間違いがありません。現代演劇に助成金がでるなどということは、ちょっと前には考えられませんでした。もちろん、これには危険はありますが、文化的なものに対して、それがないということの問題の大きさが認識されてきたというように思います。
マスによらなければ、成り立たない経済システムでは、マスしか勝てない。マスでなくても成り立つ経済システムを作るのが、21世紀前半の大きな課題だ。
日誌 96年・12月