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ひつじでは、学習院大学の文学部の紀要をここ数年担当させてもらっている。複数の執筆者がいて、哲学科があるのでギリシャ語が出てくるし、古英語の研究論文があるので、普通にはないフォントを使う。卒業論文を書いた学生さんの一覧があるので、人名のために作字をする必要がある、などなどの一般的な本とは異なった難しさ、手間のかかるところがある。ただ、これらは学術書を出している出版社にはいつもつきまとう困難であるし、ありがたいことに電算写植と呼ばれる既製品の組版を使わないので、マックのDTPなのでギリシャ語も何もかも全く問題がない組み込めることがうれしい。
屋台骨になっているものでもあり、労力をかけ、非常に気を使って本作りをしている。今日、危うく見過ごすところだったのは、学部長の高埜先生の埜の字である。校正に赤字が入って直していたのだが杢を間違って入れてしまっていた。あやうくそのまま印刷してしまうところだった。恐ろしいことだ。
後は今晩泊まって、確認して明日の昼まで、他のスタッフといっしょに見て、夕方印刷所に渡すことになる。そこまでいって、やっと山を越える。この数週間、この仕事に力の大半を傾けてきた。やっと他の仕事にはいることができる。
教科書の重版作業、古代日本語動詞の索引作り、近代語研究のゲラの校正、印刷所入れ・・・。後につかえた仕事にとりかかることになる・・・。
ひつじ書房は、言語学の研究書を出す出版社なわけだが、なんで言葉を研究する本を出す出版社を作ったのか、ということをふと布団の中で振り返ってみた。 眠れなくて、布団の中でいろいろ考えている内にそんなことに向かってしまったということなのだ。
これは、私が何で言語学、本当は日本語学であるが、に興味を持ったかということにも関わっている。私は別に研究者ではなく、学生の時に日本語を研究しようと志したわけでもないから、すっとそこにたどり着いたわけではない。
学生の時は、卒論ということについていうと中里介山の大菩薩峠について考えてみようかとか思って、私は早稲田なのだが、鹿野政直さんに会いに行って、4年の演習をお願いして3年で取らせてもらったりもしていたが、どうも踏ん切りがつかないで、今から考えると良く分からないが、そういう研究はしてはいけないことのような呪縛があった。これは良く分からない。日本文学科に進むつもりはなく、批評をすることもいけないことのようにも思いこんでいて、どうしていろいろ縛りを自分で作っていたのか今となっては、分からない。今でもそうだが、私は不十分に文学好きであり、不十分に社会科学好きである。不徹底だから、編集者をめざしたのかも知れない。
一方、私が高校の時に読んだ『武器としての笑い』(飯沢匡)の影響があって、サークルは狂言研究会というところに入っていた。これも今から考えると良く分からないが、「民衆自身の文化創造」という観念にとりつかれていて、民衆が自分で作る文化こそ考えるに値いするもので、それを知りたいという気持ちがあった。網野善彦さんと横井清さんの本、そして三省堂から出ていた民衆史の本の影響だろうと思う。この民衆とはどっちかというと市場経済に巻き込まれない農民をイメージしていた。(私は、観念的な農本主義者だったらしい、高校の時に所属していた社会部で、農村の調査をして報告書を作った。)だから、授業は熱心に聞いたわけではないが、民俗芸能の講義と中世史の授業、中世文学の講義を取り、それらを統合しようと思っていたというわけなのだ。私の所属していたのは、文学部の人文学科というところで、演習以外はすべて他学科の授業を取ることが出来た。
もし、その誤った関心の一部でも確認をすることができれば、たぶん、大学院に進もうと言う気持ちも起きただろう(後で聞いたら、回りの人間は大学院に進むと思っていたようだ)が、わずかだが研究書を読み、いろいろ考えてみても狂言は、民衆から、農村から生まれたという兆しは無いようだった。地方に残る狂言の残滓も、都市からの輸入だった。(奄美のキョンゲンはどうなのだろうと今ふと思った。どうなんだろうか? その当時、宮本常一の『忘れらた日本人』を読んでいたら違ったかも。芸能ではなくて寄り合いのことを考えていたら?)都市の文化人によって、都市的な文化の中で作られたようで、農村の素朴な信仰や、生活から生み出されたということはないだろうということだった。
「民衆自身の文化創造」というテーマを失った私は、本が読めそうな暇そうな専門書を出している出版社に就職することにしたのだった。経済原理も強くなく、そんなに忙しくもないだろうと言う間違った確信のもとに新卒として入社した。入って見るとその甘い目論見ははずれ、かなり忙しい日々を送ることなった。なれない大学回りや書店営業の中で救いはP.K.ディックの『アンドロイドは電器羊の夢を見るか』を読むことだった。自分の所有欲と経済原理の踊らされるサラリーマンの自画像をデッカードに見ていたのだった。
そのうち、製造担当者になり、物理的に本を仕上げていくことが、何となく面白いことかなと思い始めた。紙を頼んで、紙型を印刷所に渡し、製本の指示をして本を作っていく。紙を入れ忘れて。紙屋の倉庫に取りに行ったことも何度もある。製造担当者といっても季節労働のようなもので、教科書の重版のシーズンを終わると暇になるので大学回りが復活した。その時に、学習院女子大学(考えてみると学習院にはいろいろとお世話になっている!)に勤めたばかりの矢澤真人さんにあって、まあ、これも不思議と言えば本当に不思議だが、何もわからない私に向かって、研究室で日本語の仕組みについて語ってくれた話しにおもしろさを感じていた。また、彼の熱意というものをこれは本物だ、と感じた私は、具体的な例から、日本語を考える教科書がないということを言われて、初めて企画を立てることにしたのであった。
この伏線には、大学時代に授業を取った森田良行さんの文法の授業があった。これは前期だけの授業であったが、最初の授業の時の一番最初の話しが印象的であった。その内容は言語と表現の話しであり、「た」という形式が、過去を表すだけではなくて、文学表現とか様々な現象と関係しているという話しだった。それと会社にはいって最初にやらされた日本語学辞典の項目作りの時の意味の分からない用語の数々が頭の中にインプットされていたことがあるかもしれない。その企画をもし、桜楓社の社長の及川篤二氏がすんなりオーケーしなければ、今の私はないだろう。それは矢澤さんに会うと言うことも同様だが。
矢澤さんと計画を練って、心臓の病気で倒れて、企画を持ち込むのをさけられていた寺村秀夫先生と学習院女子短期大学に来ていた鈴木泰さんと寺村先生の一番弟子ということになっていた(野田さんの考えはちょっと微妙らしいが)野田さんに編者になってもらった。(鈴木先生は、今でも私がつとめを辞めてこの茨の道に入ってしまった原因になったこのことを気にしていらっしゃる)驚くべきことに寺村先生の半年でできるでしょうという楽観的な発言の結果、9月にはじめて本当に翌年の4月にはできてしまった。できて、それがかなり売れる結果を出したのである。『ケーススタディ日本文法』である。1987年に初版が出ている。12年前だから、26歳の時だ。
編集をしながら、日本語の仕組みを考えていくということのおもしろさに引かれると共に、これから勃興しようとしている新しい研究の可能性を感じた。そして、現代日本語に関するテキストの企画を出していった。『ケーススタディ日本語の語彙』(これの編者には大学の時に習った森田先生にも編者の一人になってもらった)、『日本語概説』、『日本語教育』、『対照言語学』、『ケーススタディ日本語の文章・談話』。これらの本は今でも売れているはずである。
私は、教科書を出した後で、それぞれの複数いた書いてくれた執筆者の本も将来的に出していきたい、と思った。新しい研究をだして、新しい分野を作りたいと思ったからだった。しかしながら、ある時、その企画を進めようと執筆者の多い関西に出張の申請をした時に上司に断られてしまった。学会や何かの別の機会のついででなければだめだというのだった。
それで、私は私にとっては重要だったし、商品としても、会社に迷惑をかけないばかりか、そこそこいくであろうその企画をあまり評価されていないというふうに感じた。上司が断る理由はせこいと言うことはあるにしろ、それで辞める必要があることかどうかは、今となってみるとそこまでのことでもないような気もする。しかし、当時は、それなら自分で会社をおこしてやる、と思ったのだった。
今も、中野にあるレターボックス社の阿部さん(年齢は上だが、大学時代に知りあっていた)が、そのちょっとまえにそのレターボックス社という出版社を作って、本を出していたことを知って、中野に尋ねたのだった。その時に地方小出版流通センターというところがあって、小さな出版社の本を扱ってくれるということを知ったのだった。ということは、自分で出版社を作っても本を本屋さんで売ることが出来ると言うことだ。
自費で、関西に行った私は40代になったばかりだった仁田義雄先生と村木新次郎先生にあって、支援をお願いした。ありがたいことにお二人とも助力と新しい叢書の編者になることを了解して下さったし、全面的に支援して下さることを約束してくださった。と同時にしばらく待つようにとも言われた。確かに刊行すべき本ができそうな状態にならないと出版社を作る意味がないから、それまでまった方がいいということだった。(その時から待っていて未だに出ないものもある)今だから言うが、それは独立の1年以上前で、妻と暮らしていた新井薬師のアパートを引き払い、春日部の私の両親の家に引っ越した。お金を貯めるためだ。毎月10万円ずつ貯金して、わずかなボーナスも入れて200万円は貯めたはずだ。
お二人が本を書いてくれることになっていた1990年に、バブルで非常にたいへんだった(印刷所の景気が良すぎて、仕事が多すぎて教科書が4月に間に合わないということが、新聞にまで取り上げられていた)重版時期を前に、というもの、その時期にはいると何もできなくなってしまうから、退社した。後任の製造担当者も決めてくれない中だったので今はゆまに書房にいる佐々木徹君に強引に引き渡してしまった。
話しを戻すと日本語の研究が面白いと思ったのは、研究自体が面白いと思ったということもあるが、最初に出会っていた森田良行先生の授業にもあったように、言語研究が他の研究をも革新しそうな可能性ということもあった。日本語研究自体が、革新する中で、その他の人文的な研究をも巻き込んで、変わっていくのではないかという木がしたからだった。
たとえば、『ケーススタディ日本文法』で編者の一人になってくれた鈴木先生の研究は、『古代日本語動詞のテンス・アスペクト』は、まさに「た」の研究であって、この研究によって日本の文学研究、ナラトリジー研究、語りの研究は全面的に変わるはずだと信じていた。
仁田先生の『日本語のモダリティと人称』の中にもあるが、「私は悲しい」とはいえても、日常語では「あなたは悲しい」とか「彼は悲しい」とは言えない。言えるのは文学作品の中だけだ、ということも、文学言語の研究にも革新をもたらす種になると思っていた。(実際に、少数の人々は好意的に評価してくれた)
ロラン・バルトがバンニベストという言語学者の弟子であり、研究所では語彙研究という言語学的な研究をしていて、そのこともあった『テキストの快楽』やエクリチュール<書くということ>の議論をしていたこと。言語学者のロマン・ヤコブソンが、文化人類学者のレビストロースと共同研究をしていること、もともと構造主義がうまれたことも、言語学と文化人類学の出会いがあったことなどなど、ヨーロッパの学問では、文学研究の大本に言語学があり、日本ではうまく行っていないが、その状況が打破できるのではないか、と思ったのだ。何でこんなことを考えたかは、今となってはまたよくわからない部分もある。いずれ自己分析してみよう。
しかし、結果としてまったく不十分な結果であった。
なぜか?
日本の学問が、できあがった学問をできたところから輸入しているからだ!
今となっては、日本の文学研究者は、バンニベストやヤコブソンの翻訳は読むかも知れないが、日本の言語学を読もうとしないのだ。これには、言語側にも責任があって、ナラトリジーが一番議論されているときには、ほとんど何も用意できていなかった。国語学という名称の研究は、言葉がどういう変化をして現在に至っているかということを文献で研究する語史にほとんど労力をそそぎ込んでいて、もっと根幹的なことに注意をそそぎ込むことをしていなかったから、ほとんど辞書の機能しか、期待されなくなっていて、言葉に関する原理的なことがらを提供できるなどとは思われなくなっていたからだ。国語学者の本懐が、エリートを別として辞書屋さんになっていたからだと思っている。
ああ、江戸時代は本居宣長は、言語学者であり、文学研究者でもあったというのに。ここに、日本の学問の根本的な欠陥があって、その患部はかなり深いのだ。
『古代日本語母音論』も、言語学だけではなく、文学研究にも重要だろうと言うことから、本を刊行したにもかかわらず、700部しかつくっていなくて、まだ、在庫がある。この本は、古代語の母音が8つであるという通説を批判したものである。 (なぜか、市井の古代史家からたまに問い合わせがある。)
つまり、学問の境界を超える価値があると思って刊行しても、隣接分野からはほとんど買ってもらえないということだ。それも遠い親戚ではなく、近所の研究であるのに。研究者の大半は、情報収集能力も好奇心も無くなっているようだ。
ここでの選択肢は、今までの学問のあり方を肯定して、仕方がナイという気持ちになって、部数を絞り値を上げてしまうか、学術書ではなくて、消費される情報の本に方向を転換するか、それとも違う方向に進むかということだった。
私は前者の2つはいやだ。何のために、わざわざ新しい出版社を作ったんだろう。独立する必要も無かったということになる。
ここに日本の近代の学問の批判を私が始める原因がある。できあがっていない学問に期待する原因がある。
(この項つづく)
新卒者の問い合わせがあるが、どうもただ単にメールを送りやすいからメールを送っているだけのようで、全くホームページの内容も読まないで、送りつけている人が多い。ということから、新卒者へという部分の文字を多きくし、目立つようにした。大手の出版社が採用を見合わせる中、出版社へ入りたいという気持ちを持っている人がなりふり構わないで、メールだけでもとにかくおくろうという気持ちになっているようだ。はっきり言って、これは全然どうしようもないやり方で、せめてそこに掲示されている情報も読まないで、打診だけするということは、自分が愚かであることを示してしまっているだけで逆効果としかいいようがない。
採用する側の求めているものとの差が大きすぎると思うが、ただ、ひるがえって考えてみると、今の時代の就職のあり方について、説明がほとんどないことが原因なのではないだろうか。誰も新しい仕事の仕方、生き方の設計の仕方について説明をしていないのだから。自分を振り返ってみても、仕事に対する考えが出来てきたのもつとめ初めてからだし、まともな考えを持てるようになったのは、自分で独立してからのことだ。それまでは、もっと安易に単純に考えていた。メールを送りつけてくる人を見ると、基本的なことすら知る機会がなかったようだ。そういう人はおいておいても、出版社の現状について相談する人間もいなかったのであろう。
であるならば、出版という仕事の仕方について、ちゃんと知らせる場を作るべきだと思う。まだ、思いつきの段階だが、出版社で働くと言うことについて、相談できる場を設けて上げるべきなのかもしれない。ひつじ出版塾でも作るか?
当座、考えられるのは、ホームページ上に会議室を作ることだろうか。後から来た人間でも読めるようにしておいて、オープンな場を作ろうか。あるいはメーリングリストの方がいいか。
ただ、4年生になってからでは遅すぎるので、参加資格は、2年か3年の内に申し込んできた人と大学院の入ったばかりの人と言うことになる。「インターン」と呼ぶほどかっこのいいものではないが、やはり、実際に適正があるかどうかは、早い内に調べておく必要がある。即効性のある情報は出し得ないから。実際に就職が迫ってきてからでは遅い。ただ、オープンな会議室の場合、そういった制限はしにくいから、題目として掲げているだけということになるかもしれない。
でも、そもそも出版社に入るということが、本当に魅力的なことだろうか。私自身は、人に勧めることはつらいものを感じる。だが、自分としては誇りを持ってやっているし、面白いものだと感じている。苦しみもあわせて、希望と感じることができる人がいるなら、相談にのってあげるべきかなと思う。特に今の内に新しい出版のイメージを持っていた方がいいだろうから。それは『ルネパブ』を書く人間の責任かも知れない。勘違いの期待は断固として払拭しなければならないが、本当の魅力についてきちんと文字にするということは、もしかしたら、私の責任かも知れない。サラリーマン時代の終焉の中で、仕事の再設計ということを、はっきりと提示した方がいいのかもしれない。きちんとした認識と覚悟の上で、優れた人が編集者になっていくのなら、出版の再興も夢ではないかも知れない。つまり、それがルネッサンスということだろう。今から用意しておこうか。
索引の作り方について、誤解があるようなのでここに書いておく。
コンピュータに過剰な期待を皆様お持ちのようだ。これは若い方も壮年の方も、皆そうなのだ。索引を自動的に作ることも半自動的に作ることもできない。できるとしたら、かなり高度な知性を組版ソフトが持つ必要があるが、現状ではそうではないのである。ひつじでは2の方法で作っています。
索引付けには高度な知性が必要なので、機械にやらせるのは現実的には不可能である。1 全文から自動的に索引を作る方法(現実的には編集者の労力が掛かりすぎて不可能)
キーワード登録をするためには、過不足、取り漏れがないかどうか、本文を全部一覧して、キーワード一覧を作る(1)。
初出の単語に索引付けをする。一語ずつ検索して索引付けをする。このとき重複がないか、キーワード一覧といちいち照合する作業が必要(2)。
索引は一般に500語(たとえば、森田先生の『意味分析の方法』の場合、1100語)以上の項目があり、これらを重複していないかを調べるために一覧をその都度確認することは不可能であるし、予測しない項目名を使っている場合、全く拾われなくなってしまう。表記のばらつきは、意外に本人も気が付かないものである。
選び出された単語が、確認をする。なぜなら、全く情報のないページもあるから、読者にとってかえって不便になる。
手間が非常にかかるし、2に比して無駄が多い。
著者が、最初にキーワード一覧を作ってくれれば、作業量は減るかも知れない。
語数が非常に少なければ、可能だろうが、研究書には向かないと思われる。2 索引に取る必要のある語だけに著者が索引を付ける。
索引付けをすべてのページにわたって行う手間があるが、基本的に必要なものだけが取られているので、後工程で削除しなくても良い。
3 漢字やカタカナ語を一括して拾い出す。(これはひつじではできません)
漢語やカタカナ語が全て拾い出されると必要のない項目が、ほとんどなので、削除の作業が非常に大変。
基本的にコンピュータは、単純に印付けをされたものを拾うことしかできないので、インテリジェンスな索引作りを自動化はできないことを覚えていてほしい。
現在は、教科書出荷のシーズンの真っ盛りである。採用の連絡があると採用している先生を確認する。採用のお礼やフォローをする必要があるからである。
ところが、取次店のNの医書センターに電話したところ、そんなものは分からないし、知る必要はないとのこと。失礼な言い方でもあった。いったい、我々が地道な営業の努力をしているから、本が動くのであることをどう考えているのか。本を作り、売るのは我々で、それがなければ、流通があることの意味もない。
商売ということをどう考えているのだろう。
4月から,正しいスタッフとして来てくれる賀内に、順次、本作りを教えているが、今日は版下を印刷所に渡し、午後にクロス屋さんが来たので、クロスの発注をいっしょに行った。(クロスとは上製本、ハードカバーの本の板紙の回りをおおっている布あるいは表面が革のような光沢をもった紙のこと)
思い返すと、自分が最初に本を作ったときではなくて、前に勤めていた会社で製造担当者になった時のことだが、紙見本、クロス見本を始めてみる興味で、他にさしたる仕事もなかったこともあって、ほとんど一日中、1週間くらい、その見本を見て、いろいろ、紙についての気持ちを楽しんでいた様な気がする。もう今風ではないとか、なかなかいい感じとか、気持ちがいいとか、好きではないとか、ずっと眺めていたような気がする。Iさんという製造担当者の下で働くことになったのだが、彼が忙しく、私に教える間もなく、飛び回っていたので、私は勝手に見本を眺めていたのだ。それはそれなりに楽しい時間だったような気がする。
紙の見本帳はなぜたのしいのだろうか。それ自体が小さな本になっていて、綺麗な紙が綴じられている。綺麗といっても、装飾豊かなという意味ではなくて、本に使われる実用的なものなのであるが。この小振りさがいいのだろうか。余っている見本帳を娘に渡したら、「小さい本」と呼んでけっこう気に入っているようだった。
ひるがえってみると、今、他に何もしないで、そういう見本帳をずっと眺めているような時間を、新しく入ってくる人に用意できているだろうか。私の場合は、もう少し人数が多くて、忙しくて目が届かなかったということと、私の神経が太くて、周囲の目にあまり頓着していなかった、ということだけなのかもしれないが。でも、何かを育んでいくためには、もう少しゆっくりした時間がいるのかもしれない。せめて、もう少しきちんと説明できる時間を持てるようにしよう。
本というものは、電子本をのぞけば、ほとんどが紙でできている。紙というのが基本的な材質である。それを紡いで、本という器ができてくるのだから。そういった物理性というものは、ちょっといい感じがする。私が、出版人としてバランスを失っていないとしたら、それは返品を毎日見ていることと、そうした物質性への親しみがあるからのような気がする。自己肯定的すぎる意見だろうか。
10月から、ひつじにアルバイトで来てくれて、4月から社会人になる松尾さんの壮行会を昨日やった。彼女のおかげでUNIXを稼働させて、データベースのいくつかをPerlで動かすようになった。現在、検索が高速になっているとしたら、そのおかげである。まだ、メンテナンスの都合などからひつじの刊行物と書評のデータベースはファイルメーカーのままであるが。
彼女が原則として来れなくなるので、昨日と今日でUNIXとPerlの基礎の基礎を賀内に伝授してもらった。スキー靴のはきかただけ教えて、頂上から突き落とす、そんな感じでもあるけれども、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)オンリーの人かと思っていた賀内さんが、テキストベースのUNIXをなかなかおもしろがってくれていたので、松尾さんの教え方がよかったのでもあろうが、期待がもてる。(希望がつながった?)
先週は、懸案の学習院大学の文学部の紀要の納品も終わり、ほっと一息と言うところだ。担当することになっていたものが、途中で辞めて、私が全体をみるようになるなど、紆余曲折があったが、きちんとできてとてもうれしい。金子君と阿達さんのおかげでもある。それに加えて、今までのものがだめだったということはないが、今年のものは、内容的にも読ませるものが、少なからずあったことも述べておきたい。紀要はもっと公開すべきだ。
現在、教科書の出荷を行っているが、品切れになったものが出来てきたり、第1段階を終わり、第2段階目に入ってきている。出荷については1月から来てくれている朝倉さんのおかげで、スムーズに行っている。本を作ることの方に力がいっている私は、妻と朝倉さん、そして学生の二人にまかせきりだ。
学生さんを含むスタッフ全員にお礼をいいたいと思う。教科書シーズンは、4月の半ばまで続く、もう少しがんばろう。
賀内さんにUNIXの入門講座をしたといったが、実は、私自身も、昨年の夏に明治大学の市民講座でUNIXを勉強したばかりなのだった。ということは、賀内さんと私は半年しか時間差がない、ということである。前史を含め、UNIXに触れた自分史を振り返ってみたい。
一番最初は、インターネットの一番最初のプロバイダー、UUCP接続しかできない(ホームページを見ることが出来ない)が、FTPやTelnetをコマンドライン(テキストで命令を送ること)で実行できるInternetWinという会社に申し込んで、登録したときだった。何がなにやら分からなかったが、その接続方式が、まさにUNIXであって、これは素人にはだめだわいなあ、と実感したことを覚えている。その時にアップルのFTPサーバーにつなげたりして、つながったことだけを喜んでいた。これは、1994年ごろのことだろう。どうにも使えないという実感であったが、これがUNIXとの初めての接触だったことになる。
その後、PPP接続ができるようになり、技評を辞める前後の川添さんに手伝ってもらおうとしたら、その前日に自分でできてしまった。そして、しばらくしてhtmlを自分で書くようになり、マックのサーバーをいじって、設定をするようになって、何となく、第一アレルギーが消えて、昨年の3月にFreeBSD用のマシンを購入して、インストールに戸惑いながら、知り合いの助けを借りて、インストールまではとにかく済ませ、先ほどの夏の講習になったというわけだ。
UNIXをひつじレベルで使う理由は、簡単なCGIを入れて、ウェブをインターラクティブにしたい、セキュリティを入れたい、ということだ。ひつじの規模がもっと大きければ、たぶん、よその人にやってもらうという判断の方が正しいだろうが、規模が少ないので、とにかく自前でやってしまおう、そのことで実感としてインターネット技術を体得しようと言うことだ。
これは口で言うほどは簡単ではない。近い将来、そういう作業を外注化した方がいいという風に思わないとは言えないが、未来の編集者にとっては、少なくとも理解していることは必要なのではないかという気持ちは変わらないだろう。少なくとも人に説明できるだけの知識は必要だと言うことだ。でも、そのためにはやはりいじることが出来ないとだめだろう。
私自身は、活版からはじめて、電算写植にぶつかり、DTPを自分でこなし、webで発信し、自分でサーバーを持つというところにきた。組版技術とインターネット関連をもごちゃ混ぜにして、時系列にしてみよう。UNIXに止まらなくなってしまった。1985年 24歳 編集者になる。活版で本を作る
1986年 26歳 電算写植
1988年 27歳 パソコン通信
1990年 29歳 ひつじ書房創業
1993年 32歳 DTP
1994年 33歳 インターネットと出会う
1995年 34歳 ホームページを持つ
1996年 35歳 htmlを自分で書いて発信する
1997年 36歳 OCNで自前でサーバーを持つ、書評ホームページも併設
1998年 37歳 UNIX講座
1999年 38歳 T-Timeで自分の本の草稿を公開こうしてみると活版からはじまって、電子本、web-publishingを含んだ新しい仕事をはじめていくまでには、かなりの月日を要しているということがわかる。少しずつ、今の私になってきたということだ。(ローマは一日にはならず?)すこしづつ新しい選択をする時には、今、思っているよりもかなりの時間をかけて実現している。DTPの導入にも半年くらいかけているし、サーバーと専用線の導入も1年くらいかけている。いろいろ、悩んで決めてきたんだなあ。
これを考えるとひつじに入るとき(正確には入る前)から、電子的なパブリッシングをすることも普通の本作りをする(これもDTPだ)ことに含まれている編集者というのは、かなり新しいことだと言えるのかも知れない。もしかしたら、賀内さんが日本編集者史上はじめての豪雪ではなくて、はじめての存在かも知れない。少なくとも単行本の世界ではそうなのではないか?
一方、私は10年以上のステップを踏んでここまできたわけだが、少なくとも私はそういった歴史的な過程を踏んだ上で、こうなったわけだ。ということは、理解するまでにはそれなりのステップが必要だということになるだろうと思う。もちろん、今から活版を使って本を作る経験から始めると言うことはナンセンスだろうが、できるかぎり、過程を大事にした方がいいだろう。結果としてでてきたものを受け入れるだけでは、ひ弱になってしまうような気がする。できあがった思考というものが本来的にないのならば、過程の体験こそが重要だろうとは思う。
水越伸さんの『デジタル・メディア社会』がようやく出た。岩波でという点がしゃくにさわるが、それはおいて置いて、非常に重要かつ有益な糸口が、示されている、心が躍る本だった。書評は、書評ホームページに早書きで書いたので関心のある方は見てほしいし、この本はやはり必読書だから、即座に買い求めるべきだ。
「メディア・ビオトープ」という言葉だ。このキーワードの構築力は、なんともまあ!、という感じである。こんな説明では何がなんだか分からないだろうが、できれうだけ冷静に説明したい。そもそも私は、学校制度によって世間が、破壊されてしまったということを何度かこの日誌に書いてきたと思う。それに対するカウンターとしてSOHOやNPOがあるということも述べてきたと思う。そして、そのSOHOやNPOを経済的に支える仕組みの一つが投げ銭システムなのであるということも、もし、日誌読者がいるとしたら、お分かりいただけていることと思う。(はじめて読む人には全然わからないかもしれない。スミマセン)
しかし、投げ銭が機能して、SOHOが世間を再生するとして、それは共同体=コミュニティの再生ということに考えを及ぼすと深い絶望感に陥ってしまう。日本社会は、学校と会社によって、ほとんど地域社会というものをなくしてしまっているからで、再生しようにもその再生する地域というものがない状態だからだ。SOHOが そこまで完膚無きまでに破壊された地域を再生する力はないだろう。少しでも再生できなければ、均一な近代社会の中の単なる補完としてしか機能できないだろう。それは、会社社会の中のたんなる隙間に過ぎず、社会を構成し直す力はないことになってしまう。大企業の下請けとか、小間物仕事だけをこなしていく、埋め草になってしまう・・・。
そもそも社会全体がSOHO社会になることは非現実なのだから・・・。
しかし、ビオトープの考えはこれを逆の方向から、見ることを教えてくれる。どういうことかというと、ビオトープは、公園と住宅のベランダ、街路樹などそれ自体は点でありながら、それらをリンクさせることで、昆虫や鳥や生態系を点をつないだ近所の範囲で、再生させるというものである。それは地球全体とか大きなマクロの思考ではなく、住んでいる場所を立入禁止の場所を設けたりということではなくて、生活の中で活性化しようというものである。都市空間の中でも、そういった「すきま」をつなげることで、生命の環境を良くしていくという発想なのだ。
地域全体が一丸となって(その方がいっそういいことではあるのだろうが、とりあえずそこまでの一致を必要としないで)ということではなくても、点と点が有効に結びつくことができれば、その空き間の連合によって、新しい何かが開けるということだ。
これをSOHOの考えにつなげることができるだろう。小さなものどうしが、うまくネットワークを組むことができれば、「すきま」や「あきま」が、うまく連合できれば、それは必ずしも社会全体を変えなくても、多様性を保証し、育てるという点では、希望が持てるのではないか。これを「すきま同盟」と名付けたい。
昨日の「すきま同盟」の続き、あるいは書き直しです。
ビオトープというものは、バイオ(生命)とトポス(場所)の複合語だそうだ。都市や開発が進んだ地域の自然を「復元」することを目的にしている。それは、心の休まる空間、自然と人間が共生できる環境を回復するということだと思う。近代人は、自然を激しい勢いで、破壊してきた。特に日本では、近代化を著しい勢いですすめたということがあり、無惨な様相をあちこちで見ることができる。これは、工業化ばかりではなくて、地方からでてきた人間が、郊外に住処を求めて、家を建てることでも、かなりの破壊が起きている。
東京の西側、山の切り崩し、林を伐採している。電車に乗って、窓の外を見ているだけでめまいがするくらいだ。もちろん、それは東京の西側にとどまらない。日本全国で起こっていることだ。日本ばかりではなく、世界中で。
ビオトープは、そんな自然を回復するために考え出された。面白い点は、すでに伐採された森をまるまる元の姿にもどすということではなくて、そこに作られた住宅の庭を工夫したり、公園を工夫したり、残ることができた自然と線を結んで、鳥や昆虫達が、行き交いできるような環境を、壊されてしまった環境の上に薄く網をかけるように、自然を回復させるのである。住んでいる人間をかならずしも排除して原生林を復活させるというのでもない。また、根が生えやすいコンクリとか、様々なアイテムを用意して、そんなに気張らないでも、やろうとおもう範囲でいろいろやることができるということもある。生活そのものを全否定するわけでもない。失われた自然の回復、ということを比喩的にとらえて、世間の回復ということを考えたい。
日本では、軍隊制度と連動した学校制度と会社主義によって地域が、壊滅的に破壊されてしまった。地域に役立たない知識は、人々を都会へと誘惑し、地元の知恵である様々なものごとは価値がないこととされてしまった。西欧から輸入された民主主義が知識として上から啓蒙された一方、実際的な寄り合いの知恵とか、身過ぎ世過ぎの才覚はよけられてしまった。子育ては、地域と家族と職能が共同して行っていたのに、仕事と生活を分断してしまった結果、お父さんは地域の中の位置を失い、母親は子どもの世話を無理矢理抱え込まされた。親方も世話焼き爺もいなくなってしまった。そんなかで、実際に役に立たない学校が崩壊しつつあることは、周知の通りだ。起こりやすくなっているのはカルシウムの不足ばかりではないはずだ。ここで、破壊されてしまったのは、地域であり、世間だ。昔は、必ずしも親が教育に優れていたわけではなくて、近所のおじさんや、母親の兄弟、回りにいる人々を含めた世間が子どもを一人前にしていた。これが失われたのは、自然が破壊されたのと同様の危機的なことだと思う。
会社主義は、失われてしまった共同体の代わりを果たしてきた。それは、良く言われているように単純にいやらしい集団主義ということではなくて、社会人としての規範とか目的意識を与えるとか、個人がアトムとしては生きていけない以上、個人を救う救済機関でもあったのだ。かなり窮屈な救済機関ではあったが、単純に批判してすむということでもないだろう。しかし、救済していた会社主義が崩壊しつつある中で、人間はどうしたらいいのか、良く分からなくなっている。一度は、会社の組織でも正しくもまれないと、常識すら身につけることはできないのにただ、会社主義が崩壊しただけですむ問題ではないだろう。受験秀才で、小さく自我が固まってしまう一見優秀で、賢い人間のなんと多いことか。そういう人間は、会社を馬鹿にしないで会社の論理を知った方がいい。経済原理に基づいていようが、常識を教えてくれる機関は、もうそれしかないからだ。学校も親も大学も、人の道を教えてくれない。
しかしながら、会社主義はすでに崩壊に向かっている。その中で、新しい職業組織は、SOHOということになる。小規模で、目的に応じて仕事をしていく。これは、かつての居職人といえるかもしれない。この世界には、師匠や個人的なつながりが多く、会社の看板ではなくて、個人の信頼と力量が重要になる。これは、世間の基盤といえるものだ。たぶん、SOHOがもっと広まっていくことで、会社主義の毒は薄められていくことだろう。
このことは間違っていない。少し前までは、SOHOがそれに変わって世間を教え、新しい倫理を作るだろうと思っていた。しかし、冷静に考えるとSOHOがすべてを接見して、完全に無くなった世間を丸ごと復活できるというのも高望み過ぎるのではないか。そこまで強くはないだろう。会社主義は弱まるにしろ、会社という機構がなくなるということは考えにくい。となると価値観の崩壊と非力なSOHOしかないのか?しかし、ひとつひとつのSOHOがビオトープの箱庭のようなものだと考えるなら、どうだろう。ひとつひとつのSOHOは小さくて、力が不十分であっても、カエルの道や蛇の道、あるいは小鳥の飛んでわたれるようなエコロードのようなものを付けることができるのであれば、それは立派な生態系として機能するのではないか。
近代化された住宅地の中に、いくつかビオトープ的なSOHOがある。それらが、複雑に、連動していくことができるのであれば、それはアルタナティブな「エコ」システムになる。それは、生活と仕事、楽しみと励み、責任と自由と、人間の感情と働きのまじありあったもう少し無理のない生き方というものの環境になるのではないか。これは、世間の復元だろうと思う。この意味で、世間の復元のためのビオトープとしてのSOHOということを考えてみることが可能なのではないだろうか。
24日、久しぶりに銭湯に行った。歩いて5分くらいのところにひっそりとあるのである。以前、事務所に住み込んでいたころに、飯田橋とか本郷とかの銭湯に行ったが、だいたい、サウナがあったり、いろいろ新しくなっているところが多いのだが、そこは至ってシンプルで、湯船が二つあるだけだ。
都心なのに意外とお客が多く、9時半だったが、何人もの人がやってきていた。なかなか落ちつく銭湯で、専修大学の通りよりも神保町寄りで、もし、銭湯が好きな人なら、本当にオーソドックスではあるが、行ってみる価値はあるだろう。
このところ、カプセルホテルに泊まることが多かったが、夜中テレビをつけっぱなしのひとがいるなど、疲れがとれないことがあって、事務所に泊まった方が安らぐと思うようになった。実は、車で運んでアウトドアするような大きめの寝袋があって、それを二つ重ねて、その中に小さな寝袋を入れて寝るのでそんなに悪い寝心地ではないのだ。
久しぶりの銭湯はなかなか良かった。また、たまにいってみようと思う。日誌 1999年2月
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