今、あらためて「委員会の論理」の可能性を問うことに意味があるか

2019年4月24日(水)

今、あらためて「委員会の論理」の可能性を問うことに意味があるか

中井正一という美学者がいて、戦後、国会図書館副館長を務めた人がいました。1900年生まれで、1952年に亡くなっています。「委員会の論理」という文章が比較的知られているようですが、はたして知られているのでしょうか。忘れられている人ではないかと思いますが、Wikipediaを見ると「近年、中井のメディア論が再び注目されており、再評価の動きが高まっている。」と書かれています。けれども、どのあたりで、再評価が高まっているのでしょうか。また、Wikipediaでいう「近年」というのはいったいいつのことなのでしょうか。私の方で、状況がつかめていないだけなのかも知れません。

中井氏は、本人は、コミュニケーションということばをつかっていなくて、論理といっていますが、一応、今風にいうとコミュニケーションといってよいのだと思います。コミュニケーションについて3段階の考え方を述べています。「話される」段階、「書かれる」段階、そして「印刷される」段階。認識し、確信し、述べるという曲面を指摘しています。1人の人間が発話して、それを聞く、何かが伝わるということだけではなく、描写があって、主張があって、やり取りがあります。議論ということばはつかっていませんが、議論を巡る議論になっています。そういう集団の議論があって、その段階の議論を「委員会の論理」とよんでいるようです。用語の命名の仕方は、中井氏の独自のもので、あまり洗練されているとは思えないように思われます。その後、言語研究として発展されていることはあるのでしょうか。言語研究者が、「委員会の論理」について触れていることはあるのでしょうか。美学との関連での発言であること、映画についての発言もあることからするとベンヤミンとの連想が浮かぶし、話される段階をギリシャでの会話といっていることからするとアーレントとくっつけたくなります。ドイツ文学者の池田浩士さんなど、文化研究者の方による言及はあるようですが。

言語学というよりも、言語論と呼ばれる人文学に近い分野といえるでしょう。個人から発せられる言語と書き読まれる言葉としての言語、マスメディアの言語の違いに注目しているということからするとメディア論的言語論といえるのかもしれません。言語学が、社会学の成果を輸入することで、社会的な言語研究を目指しても、それは輸入品で、それはそれで必要かつ重要ではあるが、下手をすると社会学の二番煎じになってしまうこともあるでしょう。言語学として社会を扱おうとする時に、メディア論的言語論のようなものと格闘する必要があるということもあるのではないでしょうか。個人の言語と集団の言語の違いを考える時にひとつの出発点として「委員会の論理」は、ありえるのではないでしょうか。そのあたりを議論した方が、ひょっとしたら、合意形成の言語学や、話し合い学のための言語研究、会議の言語研究を進めるには有効なのではないか。社会言語学にとっても。合意形成は民主主義の基礎として必要だから、言語研究として考えるべきだといっても、上から降ってきた落下傘的な設定になってしまいます。「委員会の論理」のようなところから、議論をはじめることで、従来の言語研究が、扱ってこなかった言語についての研究の可能性を開くことができるのではないのでしょうか。もしかしたら、過去にどなたかが、取り組んでいて、面白い可能性が開けなかったので、研究の流れが生まれなかったということなのかもしれません。はたして、今、あらためて「委員会の論理」の可能性を問うことに意味があるでしょうかと自問しています。

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