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2022.2.22(火)

校正のこと


ひつじ書房に入社した当初、紙の束を指してこれはゲラって呼ぶから、と先輩に言われたとき、これが噂の「ゲラ」ですか…、とそれまで口にしたことがなかった言葉に少しこそばゆい感じになったのを覚えています。この仕事をしていないと触れない言葉ですね。宅配便の荷物に「ゲラ」と書いて集荷の人に「これ何ですか?」と聞かれたことがあります。

さて、出版社の社員はそのように入社して専門(?)用語を教えられて覚えていくわけですが、研究者の方はどういう風にそういうことを覚えていくのでしょうか。用語に限らず、校正のやり方などもですが、先生や先輩から教えられて覚えていくのでしょうか。

先日少し校正のやりとりでうまくいかず、もっと初めにやり方をご説明した方がよかったかな、と反省することがありました。著者校正として初校ゲラをお送りしたのですが、こちらでゲラに書き込んでいたものはそのままゲラ上で返答があり、それ以外の本文の修正は多くなったということで、ほぼ全面改稿のワードの履歴付きのファイルで送られてきました。

本文の組版は、ひつじ書房では組版所でAdobe社が出しているInDesignというソフトで組版を行っています。
体験版でもよいので少し触ってもらうともう全然違うというのが分かってもらえるかと思うのですが、ワードとは全然違います。ワードは執筆ソフトですがInDesignはレイアウトソフトです。

原稿を元にInDesign上でレイアウトを行っていくので、何が言いたいかというと、ワードの文章を右から左に流し込めば完成では無くて、設定を一つずつ入れています。もちろん自動化できるところはしていますが、基本的には作業者が作業をして、紙面の形に組んでいます。なので、差し替えデータを入れなおすのでやり直してくださいというのは、賽の河原のようなもので、組み上げたものをすべて崩すということになります。用語としては「組み捨て」と言います。

組み捨てをしたくないのは、もちろんその分の労力や費用がかかっていることがあります。しかしそれ以上に、きちんと組み上げたものをもう一度一からやり直してくださいというのは、作業者としても精神的にきつくないでしょうか。

校正を修正するフローというのは決まっていて、赤字の入ったゲラを見て、作業者が修正するという風に決まっています。もっとも効率の良い形に落ち着いているので、それ以外の方法でやれというのはルール違反になります。

そういうこともあり、いま「著者校正のやり方」を作っています。(PDF)
https://www.hituzi.co.jp/staff/img/proofreading_20220209.pdf

よろしければご意見をいただけますと幸いです。

何もゲラに修正を入れてはいけないと言いたい訳ではありません。ゲラの形になって、原稿とは違う形になることで気づくことはたくさんあるのは良く分かります。せっかく本になるのだから、私も思い残すことがないよう、とことんやりたいと思っています。ただ、組版をするにも校正をするにも、人が関わっているのです。それを無しにするようなことは、やめて欲しいなということなのです。

とりあえず原稿をいれて、あとはゲラで修正をするから、というのは誰も幸せにはなりません。



2022.2.8(火)

まもなく刊行! 『デュルケーム世俗道徳論の中のユダヤ教 ユダヤの伝統とライシテの狭間で』


今回は私が編集を担当した、もうすぐ刊行される新刊のご紹介をしたいと思います。『デュルケーム世俗道徳論の中のユダヤ教 ユダヤの伝統とライシテの狭間で』(平田文子著)です。

デュルケームといえば、コントやスペンサー、ヴェーバーなどと並んで「社会学」という学問分野の創始者とされる社会学者ですが、彼は敬虔なユダヤ教徒の家に生まれ、彼の父はラビ(ユダヤ教の宗教的指導者)でした。しかし彼の出自が彼の思想や学説に与えた影響については今まであまり顧みられることはなく、むしろ、社会学という近代的な(=宗教と切り離された)学問体系を生み出したこともあり「デュルケームはユダヤ教を棄てた」という見方が一般的かと思います。
しかし、本書はこうしたデュルケームに対する通説に疑義を呈します。著者の平田先生は、まずデュルケームの割礼の記録や埋葬記録など、ユダヤ教徒としてのデュルケームの痕跡を丁寧にたどり、デュルケームがユダヤ教を棄てたとは決して言えないことを示します。さらにそこから、彼の道徳教育論やその基となる社会連帯論にユダヤ教の教えと相似な部分があることを指摘し、彼の思想にユダヤ教の影響を見出します。

デュルケームの思想は社会学の礎となっただけでなく、彼の道徳教育論は当時のフランスの道徳教育の基盤となりました。そこで企図されていたのは世俗主義、つまり宗教的な権威を国家や教育などの公共空間から切り離そうとする「近代」的な教育観・世界観でした。しかし、デュルケームが説いた道徳教育は、宗教を排したように見えて、実はユダヤ教の教えが盛り込まれていたのです。宗教的なものを切り離そうとしていたのに、なぜユダヤ教の教えを盛り込むことができたのか、それはユダヤ教の重要視する「実生活の中で法(掟)を守ること」という宗教的規範が、近代的な道徳規範としても有効であったからだと本書は指摘しています。
このように彼の思想、そしてその思想に基づいて道徳教育が行われていた近代社会に、ユダヤ教の影響を見出そうとする本書の目論見は、「近代社会は本当に宗教を完全に分離したか」という、近代そのものを捉えなおすことにもつながる、挑戦的なものだとも言えます。
そうした点で社会学や教育史に関心のある方だけでなく、近代思想・哲学に関心のある方も是非読んでいただければと思います。

また、本書の後半ではデュルケームの思想とフランス歴史学(特にアナール学派)との関係についても検討されています。社会学、哲学、教育学、歴史学と、複数の領域にまたがる学際的な研究という点でも、とても挑戦的なものになっています。
ぜひご一読ください。

『デュルケーム世俗道徳論の中のユダヤ教 ユダヤの伝統とライシテの狭間で』






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