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(6/25)グヌーテラを改造しよう―本当の共有化へ進化を(松本 功)  筆者写真 おくればせながら、グヌーテラを使ってみた。今、まさにはやっている曲―著作権が処理されているとはとうてい思えない―音楽も検索するとでてくる。非合法と知りつつ、落としてみても、そんなに悪い音質ではない。パソコンにスピーカーをつなげれば、まともな音質なのかもしれない。

■「作り手を巻き込んだ共有のツール」の可能性


 こんど実験してみようと思うのだが、ヒットしている曲と同じ名前をつけて、自分のカラオケの歌か鼻歌を保存して、それを検索されるようにしてみることができるかどうか。できたら、面白い。そのデータの中身まで見て、検索しているわけではないだろうから。いや、そうでもないのだろうか。

 音楽を共有する、というソフトということになるだろうが、共有とはなんだろうか、ということをここでは考えてみたい。共有というのは、みんなで持ち合うということ、そういうことだろう。ただ、ここで、問題なのは、みんなという中に作り手が入っていないことだ。作った人間が、関わりしらないところで、交換されることを共有とはいえないだろう。勘違いしないでほしいのだが、私は、ここで、著作権侵害だということをいいたいわけではない。グヌーテラが、著作権を侵害するソフトだといいたいのではない。私は、グヌーテラが、もう一歩すすんで、作り手を巻き込んだ共有のツールになることはできないのか、その可能性について考えたいのだ。

■ネットでのオーケストラ


 視点をかえてみよう。グヌーテラは、出来上がった音楽を交換することができる。さらに進んで、音楽を作るところから、参加できるようにならないものだろうか。せっかくPtoPというわけである。楽器が引ける人はあるパートを担当したり、コーラスに参加したり、あるいは楽器が弾けない人は、プロモーションに参加したり、ジャケットつくりに参加したり、ということができないんだろうか。

 何をいいたいのかというと、グヌーテラをできあがった音楽データを取ってくるということだけではなく、参加する社会的なアプリケーションに改造できないものかということ。データを取ってくる機能に追加して、たとえば、何か、花束のデータをおいてくる、レアカードならぬレアデータをおいてくる。あるいは、場合によっては、それが、ビール券でも、日比谷花壇の花束でも、コインであってもいい。データを送りつけるということには、危険が多いので、その危険をなくすようなきちんとした配慮が必要ではあるだろうが。ただ、とってくるだけではなくて、交換ということばのもっとも正確な使い方、お互い様という機能を実現できないものだろうか。さらに、共同作業をできるようにすること。それができれば、ネットはオーケストラのような、あるいはセッションの場所になる。

■共有参加への道


 私は、プログラムの作り方はぜんぜんわからない。もし、作り手と聞き手を結びつけるようなそんな共有のアプリケーションにグヌーテラが進化するとしたら、それは21世紀のもっとも重要なこと、作り手と使い手が分別されないこと、参加型のコミュニティーになること、そのことのインフラになるのではないだろうか。そうなれば、自分の鼻歌はひどいにしろ、アカペラ、あるいはオリジナルの曲を、みんなに聞いてもらえて、評価してもらえることもできるようになる。

 今は、「有名な」曲をただ、タダで落としてくるということ以上の機能がないともいえる。それを逆転してしまおう、ということである。そして、この発想は、グヌーテラの持っている過激な部分、共有し参加を可能にしてしまうことのひとつの進化形ではないかと思うのだ。オープンソースコミュニティの方々が、この記事を読んでいるかどうかは、心細いが、ぜひ、そんなふうに進化させてほしいのだが、どうだろうか。みなさーん!