私はひつじ書房の松本と申します。ひつじ書房というものについて、ご存じ無い方も多いと思いますので、間単にご説明いたします。一言でいうと言語学の研究書を刊行している出版社で、いつ出来たかというと、1989年にベルリンの壁が、壊されたわけですが、その翌年1990年にひつじ書房を創立いたしました。今年が、1998年ですから、今は9年目と言うことになります。よくもまあ、これだけもったもんだ、というのが、正直偽らざる気持ちというところですが、ひつじ書房は、日本語を研究する若手の研究成果を出すために作りました。当時、それまで、日本語の研究と言えば、古典語の研究だったのですが、若い世代が現代の日本語(必ずしも話し言葉ではないのですが)それまであまり研究されてこなかった現代語の研究の分野を打ち立てようとしていた時期で、その研究者にほだされるかたちで、出版社を作りました。
研究書を出している出版社というものについて、みなさんの共感を得られるか、分かりません。研究書なんか、関心もないし関係ないというふうに思われる方が多いと思います。日本語の文法の研究書を出している出版というものについて、具体的なイメージを持ってもらうことも、かなり難しいことだと思います。ひとつだけ、前提として理解していただきたいことは、私の出発点は研究書を出すということだったということです。書評にしろ、投げ銭にしろ、すべての出発点はそこにあるのです。
さて、研究書も出版界の全体の動向と同様で、なかなか売れません。売れないということは、どういうことを招くかということですが、このことを簡単に考えます。
優れた研究者と話していて、その研究がとても魅力的であると感じた場合、どうするか。研究書というのは、多くても2000部どまりで、500部というものもたくさんあります。500部売れる見込みがたって20000円という値段がつけられれば、まあ、出せないこともないのですが、これがなかなか難しい。500部売れると思っても300部しか売れないこともあるし、2000部作っても1500部しか売れないこともある。我々は、資本金もないですから、リスクをなるべく少なくしてださなければならない。そのような場合、どうするか、というと、現状では、自分で編集をやるだけでなくて、DTPもやって、校正も自分でやって、というようにすべてを背負い込むということしか、方法はありません。印刷所に依頼し、この経費が払えなければ倒産してしまいます。専門の校正者に依頼していたら、経費が掛かりすぎて本を作ることができない、ということになってしまいます。本当は、正直なところ、自分で、失礼な言い方になりますけど、組版なんかをやりたいわけではないのです。校正も誰か、よその人に頼んだ方が本当はいい。加えて、もう一つの理由として、仕事の経費と仕事の品質バランスと言うことがあります。研究書の場合、組版してくれるところに頼んだ場合でも、組版のコストはかなりかかりますが、必ずしも品質がいいわけではない、ということがあるんです。言語学の場合だと、普通使わない文字が出てきます。ギリシャ語、ロシア語、発音記号は、写植で出せないし、DTPに外注しても、普通のところでは全然対応できません。校正も同じで、限られた分野の内容を校正してもらうと言っても、高い金を払って特別な人にお願いすればいいのでしょうが、そうするだけの余裕はないのです。仕事を外注するほどの採算性がないということです。しかしながら、研究の内容が優れている時、その本を世に出すことが重要だと判断した場合、自分で組むことで、組版的な品質が落ちたとしても、出した方がいい場合というのはかなりの確率であります。
そもそも、ひつじ書房は、売れる本を優先するのではなくて、オリジナリティの高い本を出すということ、学会でもまだ認知されていない研究書を出すとか、学会で認知され始めていてもその本の読者の数が少ないという本を出すと言うことを出発点にしています。組版上の品質を多少おとしたとしても、出そうと判断するのなら、自分でDTPをして本を作るしかないという運命の元にあったのです。そういう本は本ではないから、出すべきではない、という意見もあり得るでしょうが、私は、外注できるほどは売れない本であっても、内容が大事だから本を出すということを決めた場合、体裁の問題は許容されるはずだと決めてしまいました。美しさよりも内容を選んだということです。
このことをどう思われるか、非常に不安に思います。体裁よりも中身であるということは、かなり強引な発言かも知れません。私は、体裁を重視することで、コストがかかり、そのコストのせいで「知の受け渡し」ができなくなるのなら、ある程度の品質の低下は、とりあえず無視してもいいのだと思っていますが、どう思われますでしょうか。
コストがかけられないということの理由は、本が買われなくなったという現状があります。特に人文学系の堅い本は総崩れ・壊滅的な状況といってもいいと思います。啓蒙的な本の場合、それでもまだ売れるのかも知れませんが、オリジナリティのある本を出すことを優先した場合、かなり厳しい状況だと言うことが言えると思います。でも、私は、単に読者が、本を読まなくなったとか、愚痴をこぼしたくありません。その理由を考えて、乗り越えていきたいと思っています。
ここで、紙の本の特質ということを、ちょっと考えてみたいと思います。紙の本というのは、原稿がかなりの期間をかけて書かれて、原稿が出版社に手渡され、本来的には、印刷、校正というものを踏まえて読みやすいように組み立てられ、一覧性に優れたものに仕上げられるものです。一度にパラパラとめくって、だいたいの全体像をつかむと言ったことは、まだ他のメディアではできないことです。紙に印刷され、定着して、後から参照することも容易です。紙に印刷されたものは、簡単に変えることができないので、永続性・信頼性もあります。
ここでのポイントは、長い期間をかけて磨き上げてできあがったものということです。現在、現実に売れている本は、この対局にあるものが多いといってもいいのですが、紙の本の本来の強さというのは、熟成した知を提示することにあるように思います。そして、そのような永続性のある器にあったもの、知識というものがどういうものなのか、ということを考えてみると、それは、ちょっとやそっとには変更されることのない知識とか思想とかそういったものに向いているような気がします。モデルになるような思考とでも言うべきでしょうか。あるいは仰ぎ見る思想というのでしょうか。
ここで、やはり大きな疑問を感じざるを得ません。一つは、今、そのような確定した思想、知があるのか、ということです。もう一つは、現状での有効な知があったとして、それが本の中にあるのか、ということです。たとえば、デモクラシーとか、社会主義とか、国家主義だとか、確たる思考があったと思われていた時代は本にとってもいい時代だったと思いますが、今の時代、確固とした有効な知が、現実にあるのかということを考えざるを得ないと思います。結論的に言うと、確固とした知がない今、本というメディアは、弱くなってしまった。だから、本が売れないのは当然だ、ということです。
本が売れた時代を考えてみると、本の中に書かれた知識と日常とは大きな落差がありました。本に書かれた知は、やはり尊敬されていたと思います。そういった本を書いた人も尊敬されていたでしょう。これには歴史的な背景があったのだろうと思います。それは、一方に練り上げられた知があり、もう一方に無知な大衆がいたという構造だと思います。言い換えると欧米で練り上げられた知の輸入とそのような知から排除されたあるいは遠ざけられた多くの人々の存在ということだと思います。
私が良く上げる例なのですが、「ドイツ文学科の運命」というものがあります。個人的にドイツ文学が嫌いでも、好きと言うわけでもないのですが、わかりやすい例なのでいつも使わせてもらっています。近年、東京大学のドイツ文学科の大学院の入学志望者が、0だったという話しがあります。ドイツ文学科に進む人間がいなくなってしまった、ということです。どうもパワーがなくなってしまったということだと思います。でも、昭和の初期はどうだったでしょうか。帝国大学で、ドイツ文学を専攻している人間は、超エリートでしたし、あこがれのまとでもあったでしょう。彼らの知識は、かなり尊敬を集めていたし、羨望の眼で見られていたと思います。そして彼らの出す本は、売れていたはずです。その時代はどういう時代であったか。ドイツ語を話せる人間は、少なかったでしょうし、ドイツに行った人間も少なかったでしょう。ヨーロッパに行って、ヨーロッパではこうだったというだけで、その人が尊敬され、その人の知識が尊ばれたわけです。その時代にドイツに何年か留学して、実際にドイツで生活を送っていれば、極端な話し、それだけで、そのあと30年くらいは食っていくことが出来たんじゃないでしょうか。その時代は、ドイツに行く人は少ない時代でしたから。それだけで、ドイツ文学だけではなくて、ドイツ文化自身の紹介者にもなることができました。日本は、こんなに遅れていて、下品だけど、向こうはこんなに文化が優れていて、人々も上品だというわけです。当時、大宅壮一が、東京大学の学生だった時に、学友たちに欧米の文学書を翻訳させて、それで銀座で豪遊していたという話しもあります。その時代、外国語が出来ると言うだけで、かなりのエリートであり、多くの人が持っていない情報源を持っていた、そしてそれが社会的な地位と経済的な価値を持っていたということです。
戦後、それの状況は、どうなったでしょうか。ドイツで2年ぐらい過ごしている人というのはもうざらです。商社マンの駐在員が、10年とか滞在しているということもまれではないわけです。大学院生が、数年滞在して帰ってくるのに対して、商社マンは、家族で生活する場合もあって、地域に密着した体験を持っています。そうするとドイツ文化に対する情報は、大学人よりも大学以外の企業であったり、在野の人間の方に多いと言うことになってきます。大学人は、本を書くわけですが、ここで大きな情報の逆転が起きているわけです。本を書く人よりも、書かない人の方が情報を持っているということです。情報源も多様化して、様々な文化的な紹介は沢山ありますし、テレビや新聞などでも紹介はあります。今なら、インターネットで同時に情報を手に入れることもできます。もちろん、短い期間なら、ドイツに旅行することも簡単です。実際に行く人は多いのです。こういう時代に若い頃に2、3年留学しただけの表面的しか、ドイツを見ていない人の表面的な紹介だけの本が売れるでしょうか。一方、ドイツについての情報は今でも必要がないわけではありません。同じように戦争をして、敗北し、戦後を復興して、家族のあり方も現代化されている中で、同時代の現代人としてドイツ人の考え、生活など知ることに意味のあることも少なくないはずです。しかし、今までのアカデミズムは、同時代的な課題を共有するという点では、あまりにも非力です。そういうことは、基本的にはアカデミズムの中では研究されたり、情報として蓄積されて発信するということがなかなかできないのですね。そうしているうちに、ドイツ文学研究というものが、力を失ってしまいました。ここには、指摘できるいくつかの課題があります。知識の寡占状態という特権的な状況が終わった後の大学あるいは本というものの価値の再構築が必要であること、古典を読むということ、古典的な文化を紹介することから、今まさに起きていることを考える同時代的な課題を発見して、情報発信することへの転換が必要であることです。このことは、ドイツ文学科を例に取りましたが、人文系の学問全般にいえることだろうと思います。
このようなことが、なされていない以上、大学や本に収容された知識というものに価値を認めないという風潮は、正当なものだと思います。本が売れなくて、当然です。正しいわけです。ただ、同時代を扱うという方向にシフトした場合、本という器が最適なものなのか、という次の大問題に突き当たります。
ここで、話しを聞かれている人の中に、松本が言っていることは「学術書の未来がないということで、本に未来がないということではないのではないか」というご指摘があり得ると思います。このことは、大きなことなのですが、ここでは、二つのことを指摘しておくにとどめます。一つ目は、本の未来が、消費性の高い本だけで、成り立つのか、ということ。もう一つは、私が新しい知と思う本は、狭い意味でのアカデミズムが生産するものだけにとどまってはいない、ということです。
先ほど「確固とした知がない今、本というメディアは、弱くなってしまった。だから、本が売れないのは当然だ」と述べました。これに対処するにはどうするべきか。確固とした知の本はもう諦めて、そうではない世俗的な気持ち―食欲、性欲、物欲、出世欲などなど―を上手にまとめていくというのも一つの方法としてあります。最近の『平気でうそをつく人たち』なども、これは比較的上品ですが、この路線ですね。もう一つは、時間と手間をかけて丁寧に、新しい知を作っていくということだと思います。新しい知が、しばらくして、熟成して、もしかしたら、ふたたび確固とした知になっていくかもしれません。しかし、一方、確固とした知というもの自体が、もうありえないのではないか、という考えもあると思います。そうすると世俗的な本を出すしかないのか、とも思えます。いや、そうではなくて、本というものの性格を確固とした知を扱うという方針自体を厳密に考えないで、緩やかな知とつきあっていくメディアの中の一つと考え直すこともできます。その場合でも確固とした知を扱うのが、古典的な本だとしたら、もっとしなやかな本というものを考え出してもいいような気がします。それは、紙の本であってもいいし、電子の本であってもいい、あるいはその往復であったり、ハイブリッドなものであるかもしれない。あるいは、電子にしろ紙にしろパッケージ化されたものではなくて、電子メールや蓄積される電子テキストのかたちであってもいいと思うわけです。私の考えは、電子テキストによって新しい緩やかな知をはぐくんでいく、あるいは、紙の本と電子の本の往復運動があってもいいのではないか、というものです。紙の本を売って、一段落したら、電子テキストにして、また、それが時期が来たら、紙の本にもう一度作りなおすとか、電子的な媒体でずっと議論されてきたものをある時に、編集し直して、まとめて紙の本にするとか。そういう行ったり来たりというのもありだと思います。今後の知の受け渡しは、本だけではなくて、様々なメディアで相互的に行われていくのだと思います。その時に組版というものが、本を見せていく技術というものがどうなっていくのか、とても興味があります。現在の私の予感は、組版はなくなりはしないだろうが、厳密なものではなくなるのではないか、というものです。今回のT-Timeは、まさにそうで、中間的なあり方自体を肯定するものだと思います。テキストと本というものの境目が、はっきりかっちりとあるのではなくて、グレーゾーン、あるいは虹のような七色の緩やかな色の階調のようなものとしてあるのではないか。今、議論されているスタイルシートとか、そういうものが関係していくのかも知れません。しかし、インターネット上の様々な知をはぐくむにはどうしたらいいのでしょうか。また、出版人・編集人として、パッケージ化されていないオンラインに散在する知ともつきあっていくのには、どうしたらいいんでしょうか。
一つの答えとしては、電子的なナビゲーションを編集者が担うということがあると思います。何かについての知がうまれつつあるときに、それを見いだし、それを広めること。散在している知を、リンクさせて、一覧できるようにしたり、場合によっては、一言助言をして、助けたりということ。書き手を見つけて紙の本を作るということだけではなくて、同時にオンライン上のテキスト自身をもナビゲーションすること、それらのことが連動できれば、とてもいいし、次の時代の編集だということもいえると思います。現実的に、話し言葉の研究誌をインターネット上に作る計画を研究者の人と進めてもいます。
現在やっている具体的なものとしては、このオンライン上でのナビゲーションの試み、実験として書評ホームページというものをやっています。ここでは、紙の本の紹介を行っていますが、来春にリニューアルして、オンライン上のテキストについてもナビゲーションしようとしています。今でも、書評の内の多くは、オンラインで見つけてきたもので、それをデータベース化しているという要素もあります。これは、実はオンライン上での編集行為は可能か、ということの実験でもあるのです。
次に問題なのは、そういったオンライン上のナビゲーションあるいはオンラインで何かを発表して、それで生活していけるのか、ということだと思います。これは、とても重要な問題です。
いくつかの方法を実際に検討しました。クローズにして会員制にすること。このためには、パスワードを管理しなければいけません。そんなに難しいことではないのかも知れませんが、たぶん、かなり面倒な気がします。次に会費を取るにしても、クレジットカードが使えないという現状があります。これは、クレジットカードの決済口座を持つことがかなり難しいんです。これは意外と知られていないことのようなんですが、現在、個人やSOHOの加盟は、事実上、拒絶されています。オンラインで、商売を行うことができないようになっているんです。インターネットマガジンとか、オンラインショップ特集とか良くやっていますが、良く読んでみると郵便振替で、お金を送ってもらっています。数年前に加盟しようとして調べたことですが、インターネット上で決済するとなると、通信販売のカテゴリーになってしまうんです。普通の町の飲食店の場合は、対面販売なので、別のカテゴリーで、そっちは簡単に加盟することが出来ますが、インターネット上での決済は通信販売になってしまって、通信販売の実績だけで、5000万円とか1億とかの売り上げを上げていないと行けない。これでは、個人やSOHOは除外されてしまいます。そんな売り上げがあるはずがないですから。
また、情報の値段というのは、売り手が一方的に決められるものなのでしょうか、という根本的な疑問があります。あるテキストを読んで、ある人はすごく感動するかも知れないですが、他の人には全く価値がないということが、情報の場合にはありえます。あるひとことによって、数年来考えてきたことが、解決したりするということはあります。また、あるひとことで今後の指針をえるということもあったりするわけです。その同じひとことに全く感動しない人もいます。ある人は、10000円払ってもいいと思い、ある人は10000円くれても読みたくないということがあります。情報の場合、価値が読み手にかなり依存するわけです。値段を、10円とか100円とか500円とか、読み手が決めることを受け入れることのできるようなシステムが必要です。
また、クリックだけで簡単に送ることができる必要があります。ソフトウェアなら、いつも使うものであれば、使用する度に、警告を出すとか、使用期間を区切るとかということができますが、テキストの場合、一度読んでしまったら、それまでということも多いわけで、読んでその時に感動したとして、次のページにいくと前のことは忘れてしまいます。感動したその時に、クリック一つくらいで送れる容易さ・気楽さが、必要なのです。
以上をまとめてみると、必要なことが三つあります。個人やSOHOクラスで、少額決済ができるようにすること。値段を読み手が決めることの出来る仕組みが許容されること。クリック一つくらいで、送金できる簡単な仕組みであること、だと思います。私は、これを「投げ銭システム」と名付けました。いわば、大道芸人に、投げ銭をするように、ホームページ作者や情報発信者に簡単にお金を送れるようにしようと言うことです。パフォーマンス自体はあくまでオープンで、それ自体は道でやっているわけですから、誰にでも見ることの出来る状態のままで、見る側の判断でお金を送ると言うことです。ほとんどの人がお金を送らないよと言われるかも知れません。しかしながら、大道芸人は、つい20年くらい前までかなり沢山いたわけです。流しのギター弾きもいました。これは大道芸人ではありませんが、東京に寄席が100軒くらいあった時代もあるわけです。個人のお金で街の芸人を生かせておく仕組みというものが、何十年か前にはあったということです。
今、私は、ホームページをみて良い情報が書いてあると思ったら、そのデータをハードディスクにダウンロードします。それはどうしてか、というと、そのホームページを1月後、訪問してももう無いかも知れないからです。頑張っているホームページも、作り手が、疲れたり、経済的に成り立たなくなれば、消えてしまいます。それを何とかしたいという気持ち、よいホームページがあれば、育っていって欲しいという気持ち。これは、自分でやっている書評ホームページも同じで、現在は基本的に持ち出しでやっているのですが、これを何とかしたい。書評は、もともとなかなか読まれない本を紹介するためのものですから、クローズドにして会員制にしては意味がない。でも、日々運営している自分たちのコストを回収したいし、そして今後はいい書評を、依頼して書いてもらいたいと思ったら、原稿料を払いたいわけです。オープンでなおかつ経済的に成り立つような仕組みというものを考えていたら、大道芸人に思い当たり、投げ銭ということを思いついたわけです。
それで、まだ、実現は遠いだろうな、と思っていたんですが、柴田さんも編集長の一人である日刊デジクリに柴田さんのご好意で一度書かせていただきました。そうしたら、意外なことに同じ様なことを考えている人が、10人以上いて、メールをくれたんです。その人たちにはお願いして賛同人になってもらいました。そうこうしているうちに少額決済の仕組みは、できはじめていたんです。
これはサービス開始から、もう2年たっているそうですが、消費者金融で有名なアコムがやっているアコシスというのがあります。それと最近になってNTTがCALLEというサービスを始めました。これは、少額の決済を電話料金の請求と連動してやってしまうというもので、今月2000円のコンテンツを買うと、来月には電話代に2000円加算されて請求されると言うものです。実際には、運用経費がかかって、直接契約するのは今の段階では難しいのですが、このサービスのリセーラーがあって、名古屋のサン電子(サンタックというモデムを出しているところ)というところがやっているSPIS-NETというものがあります。あるセミナーでここの方にあって、投げ銭システムを提案しましたら、仕組みとして問題がないということでした。プリペイドカード以外で、オンライン上で決済できる仕組みが、できはじめていて、なおかつ、両者とも値段を消費者が決める方法であっても、特に何の問題もないということだったわけです。
この両者の仕組みを現在、実験的に使い始めていて、現在、そのホームページにいっていただくと、SPIS-NETの仕組みで私に10円送れるようになっています。ここで、ちょっと脇道にそれますが、クレジットカードのセキュリティについて一言触れておきます。SPIS-NETは、先のCALLE とクレジットカードの両方が使えるのですが、クレジットカードの番号を送るのがこわいという方が、良くいらっしゃいます。SPIS-NETの場合は、登録するときだけで、それも郵便で行うことも可能です。オンラインで、番号を送るのがこわいという方がかなりいます。でも、これは90パーセント嘘です。クレジットカードは、香港で買い物をしても、日本で買い物をしても、その店員が、その番号を流用することができます。この流用の率というのは、たぶん、対面販売の時の方が高いはずです。それに、明細をみて、買った覚えのないものがあった場合、それは支払いを拒否できるのですね。たとえば、私は結婚していますが、妻が私のクレジットカードで買い物をした場合でも拒否できるわけです。したがって、番号を流用されるという心配は、明細書を確認していさえすれば、問題はないのです。この場合困るのは、クレジット会社であって、個人ではありません。
しばらく試用運転をして、来春には、一応稼働させます。これが、うまく行けば、インターネットが日本に来たとき盛んに言われていたようなオンラインジャーナリストとかオンライン作家とか、オンラインで生計を立てていくことも原理的には可能です。そんなことが、うまく行くかという批判があると思いますが、ここで簡単に反論しておきます。
まず、これからも紙の本だけで食えるのか、ということです。紙だけでは生きていけない時代が、来ると思っています。そうしたら、電子的な本のようなものも売っていかなければなりません。しかしながら、いきなり電子テキストのクローズドな販売方法を提示して、それが読者に受け入れられるのか、そっちの方が根拠が薄いのではないか、と思います。電子本や電子テキストは、まだ認知の途中です。いきなり、定価販売ということは、無理だろうというのが私の認識です。また、新しい知を創生するのなら、新しい文化、コンテンツに対する支援する気持ちを共有する気持ちの創造が必要なのではないか。どっちが先かわかりませんが、投げ銭の行き交う場所は、労力を払ってできたものについては、みんなで支えようという一種の互助の精神の普及のスタートの場所になると思います。もし、それでうまく行かなければ、今の所他にいいアイディアもないし、もう本が無くなっても、出版人がいなくなっても、書き手がいなくなっても、仕方がないかなと思いますが、今の段階では、仮にお金を送ろうと思う人がいたとしても、送ることができない。郵便局に行って郵便振替でお金を払うというのは、実際にはかなり面倒で、不可能だからです。送りたいと思った人が少しでもいる場合、とりあえず送ることの出来る仕組みを作ると言うことは第一歩だと思うわけです。そして、これが回っていくようになれば、新しい「知の受け渡し」産業界が、出来るのだと思います。
互助の精神といいましたが、最近、こんなことがありました。国のある機関から、その機関に所属する研究員の論文を、ひつじ書房から出しているものから、無料で転載して、その研究機関の報告集に載せたいという依頼状が来ました。これは去年出したばかりのものです。はっきり言って、非常にむかつきましたし、がっかりもしました。これは、出版社という本を出すことで生活しているものに対する侮辱だと思います。個人がホームページの情報をただでみるというようなたやすいことではなくて、組織的に紙で複製して配布するというのです。どうして、そういう発想が出てきたのか、理解できないません。私は、出版社と著者が助け合って、本を出す環境とか、学問産業の現状であるとかそういったものを少しでも良くしていこうということは、学問産業界の全体の課題だと思っています。私個人は、投げ銭とか、いいホームページを育てて行くにはどうしたらいいか、ひいては本をどのようにして復活させようかということに頭を絞ろうとしているのに、コピーが、どのように学術出版を困難に陥れ、結果として研究者が本を出すときに苦労を産んでいるか、ということに何の想像力も働かないで、研究者たちが、かえって自滅の道をあゆんでいる、ということです。コピーということがどういう意味を持つかを全く考えないなんて。このことを考えると投げ銭の持つ意味は、かなり深いものがあると思えるのです。
それは、繰り返しになりますが、育てあっていく気持ち自体を育てると言うことなんです。書き手と編集と読者は助け合わなければならないということです。これは理想ではなくて、そのようなものが、仕組みとしてでき、それを多くの人が支えていかなければ、知の受け渡しの仕組み自体がなくなってしまうのではないでしょうか。
投げ銭なんかするはずがない、という意見も多いと思います。それは否定できません。しかしながら、今までは、現実世界の通り=大道であれば、そこに空き缶を帽子を置くことができるのに、インターネットの中のホームページのところに空き缶や帽子を置くことすらできませんでした。とりあえず、それができるようにしてみよう、そうすれば、誰かはコインを入れてくれるかも知れないから。そして、いいホームページが育っていくかも知れないからと思います。育っていけば、21世紀の出版の底力、インフラになると思うのです。
日本語の文字と組版を考える会 第12回の会報