2021年8月26日(木)国語教育と日本語学の連携がなぜできないのか(8月25日にメール通信で配信した内容がもとになっています。) 国語教育と日本語学の連携がなぜできないのかについて書きます。 国語教育という教科の目的は、非常にざっくりというと、かつては、幼年であったり、東京在住ではなかったり、社会的に通用する標準語を話せない人を話せるようにし、会社や組織に勤めたり、上の学校に進学したりすることのできるような言語能力をつけるというのが目的で、題材として扱われていた文学も日本文化の一員になることができるように伝統的な文化を学ぶことと、即物的な事実だけの文章よりも高度な文化を理解し、場合によっては表現する能力を身に付けることでシンプルな実用的な文章をも読み書きできるようにするということであったといっていいと思う。その目的とする能力は、国を主体にすれば、保守的・伝統主義的になり、市民社会に貢献すると考えるとリベラルになり、経済活動に従事することが目的と考えると経済主義的になる。能力志向という点では、左も右、保守もリベラルも同じ。そこで想定しているコミュニケーションのあり方は、意外にシンプルで経済的社会的に納税できる程度に社会を尊重できる人になるためのもので、社会は民主的に安定していて、コミュニケーション観もきちんとしていれば伝わるはずだという想定。普通に言語とされるものを対象としていればいいというもので、言語観・コミュニケーション観は従来のままで済んできた。 しかし、何かを伝達するとして、狭い意味での言語だけでコミュニケーションしているのだろうか。音声的なもの、音調は関わっていないのか。身振りは関わっていないのか。視線は関わっていないのか。服装は、表情は関わっていないのか。時にエキセントリックと思われるようなことばが受けてしまうのはどうしてなのか。会話は単に平板なものなのか。学校のクラスや人の集まりで誰かがよい意味でも悪い意味でもリーダーを取ってしまうということがあるのはどうしてなのか。いいことを言っていても、リーダーとして認識されていなければ、ハズらないかぎり、ほとんど無視される。たとえば、『発話の権利』(2019 ひつじ書房)の中で高梨論文は、雇われているコンサルタントが発言の権利を持つことができるためには、条件があるという。さらに高梨先生は、高梨編『多職種チームで展示を作る』(2018 ひつじ書房)の中で、話題導入の言語行動について述べているが、仕事をする上での職場でのコミュニケーションの問題は国語教育の問題ではないのだろうか。先日、あるSNSの教員の方の発言で、クラスの中で大半の人が勉強したいと思っていないと勉強を進める発言は受け入れられないという述べていた。授業に積極的に参加しない人が多いクラスでは、課題をきちんとやらなかったことを叱責してしまうとクラスが先生を受け入れなくなるという。コミュニケーションには力学があるということ。それは、コミュニケーションの実際の問題だと思うが、どうして国語教育では議論にならないのか。 しかし、国語教育が、すでに失われた伝統的な言語観から抜け出せていないということを指摘するとき、日本の日本語に関する言語研究がほとんど、受け皿あるいは相談相手になっていないということについてもいうべきだと思う。日本語学は、国語学という名称から日本語学に脱皮したが、国語を価値があるものとして尊重する前提はやめて、世界的な標準的な言語研究になりたいという願望があった。脱国家化ということで、人文科学社会科学としては、1970年代以降、科学を目指す研究はみなそのようなリベラルな方向を取った。問題は、国語教育を国語を尊重する視点ということで、科学化しようとした時に、普遍的な研究を目指そうとして、生成文法の影響のためか、本能の獲得という視点になって、学習して人や言語が変化していくという観点からの研究がしにくくなって、学習の研究からも離れたということがある。言語学は、本質主義を離れて、平等に獲得されているという考えから、学習によって言語獲得は左右されず、言語の上手い下手ということはないという立場だから、言語学習の研究をほとんど除外してしまった。これは心理学の分野だと発達心理学・学習心理学を捨てさることはできないので、その方向の研究は続けられたわけだが、言語研究は発達研究・学習研究を捨ててしまっても気にしなかった。ただ、日本の言語研究は極端なのか、日本では文化人類学の影でほとんど存在が意識されてない言語人類学の中に言語社会化の議論を盛んに行っているので、捨て去っているわけではない。しかし、体系化科学化しにくいところを切り捨ててしまった。そのことを客観的だとして記述文法と呼んできたわけだが、たとえば、社会学の会話分析で行っているような話者の交代とかそういうことは切り捨ててしまったままである。総体的なコミュニケーションやコミュニケーションの学びということを日本語学はうまく取り込めないできてしまった。 国語教育が、総体的なコミュニケーションやコミュニケーションの教育を扱おうにも、日本語学はそこに関与できないようになってしまった。記述主義といういいかたで、狭めすぎてしまった。扱うべき対象を限定してしまうとそれは記述主義ではなく、狭い言語観に依拠しているイデオロギッシュなものというべきなのではないか。記述主義は、国語尊重のイデオロギーから離脱した客観性を主張していたと思うが、それは簡単には主張できないだろう。日本語学で、言語学で言語観の批判的検討がないのはなぜなのか。知的怠慢ではないだろうか。『「させていただく」の語用論』が、非常に受け入れられたのも「誤用」という風な誤解からだったと思われる。言葉づかいを正しいか間違っているかでみるという伝統的な言語観(そういう感性はあってもよい)、国語観から抜け出せていない。『「させていただく」の語用論』は、ありがたいことに3刷り決定しました。たいへん、ありがたいことです。語用論の方で受けるともっと良かった。だが、世間的な言語学観もこの数十年変革できていない。(それが学会および出版社の怠慢)言葉づかいを正しいか間違っているかでみるという伝統的な言語観ではなくて、言語がどうやって使われるのか、もっと広い視点にたつべきで、国語教育も固定的な社会に入るために正しい国語を身につけるという視点から離れて、豊かであるともいえるし、混沌とした言語以外のあり方も含めた広い意味での言語コミュニケーションを捉えなおすべきではないか。 その意味で、9月11日に行われる社会言語科学会での秋のシンポジウムは、高梨克也先生の主催する「リフレクティブな共在の仕方」(http://www.jass.ne.jp/?page_id=1103)。これにぜひ国語教育(英語教育や外国語教育も)と日本語学(言語学も)の研究者も聴講するべきだと思う。そこで扱っている「共在」ということを言語学、言語教育学で扱えないのなら、言語学と言語教育学の連携、国語教育学(さらには日本語教育学)と日本語学の連携は行えないだろう。言語学と言語教育学が何を扱うべきかということを問い直している。しかし、高梨先生のシンポジウムの開催趣旨にはなんと「言語」ということばは一言もでてこない。次に引用する。 「人々が対面的状況に身を置き,互いの存在を直に確認しながら空間的に「共在」することは,教育や学習,看護やケア,余暇やレクリエーションなど,社会生活のあらゆる場面での実践のための最も原初的な基盤である.近年では,社会におけるさまざまな共在の場に出向いてのフィールド調査やビデオを用いた微視的分析も盛んになってきた.しかし,これらの分析は,共在の場の当事者たちがどういったスタンスでその場に臨み,何を気にかけながら実践を行っているかという観点とはまだ十分に結び付けられていないことも多い.例えばD. A. ショーンのいう「省察的実践家」には「当事者性」と「メタ性」という,容易には両立しがたい条件が求められると考えられるが,こうした問題は「共在」に関する従来の研究では必ずしも的確に考慮されているとはいいがたい.そこで,今回のシンポジウムでは,共在の現場における実践者とこれを調査する分析者のそれぞれにおける「リフレクティブ」なあり方を焦点とした議論を展開したい.また,その際,コロナ禍で関係者たちが直面している課題などついても,併せて議論できればと考えている.」 確信犯的のようにも思えるが、社会言語科学会の首脳陣はそれで企画をよく通したと思う。もうちょっと言語について言及してと言わなかったのだろうか。言語的研究の枠組み、範囲はどこまでなのかという議論はするべきだと思うが、私は組み入れるべきだと思う。やはり、言語教育、言語学関係者はこのシンポジウムに参加するべきだろう。それがなければ、国語教育、日本語学に未来はないだろうと私は思う。 国語教育、日本語学に限らず、日本の人文科学・社会科学は、言語学に限らず高梨先生が扱っているような「職場におけるインターラクション」の考察を上手く受け入れることがこの30年間できていない。ワークプレイスの研究は、ほとんど閑散状態だ。(昨年、亡くなったハーベスト社の小林社長が、社会学会でワークプレイスの研究は売れないんですと言っていた。)先にあげた『多職種チームで展示を作る』を読んでいる国語教育研究者、日本語研究者はほとんどいないだろう。伝統的な人文科学・社会科学の研究は、他者と出会うという劇的あるいは人生的な、何だか文学的な出会いといえる出会いを尊重して、本当はよく分かっていない地味な自分自身との出会いを無視してきた。私はそれではこれからの人文科学・社会科学の未来はないと思う。批判的研究といわれるものの多くが他者を批判することが多くて、誰かを啓蒙することは思考するが、自分を上手く批判できていないように思ってしまう。誰かを批判することで案外自分に対しては免罪符にしているような気がします。これは出版人である自分に返ってくることなのです。 国語教育と日本語学の連携がなぜできないのかということでいうと国語教育は、今の時代に何を扱うべきかについてラディカルな問い直しができていないということと、日本語学はどうように枠組みの設定の再検討ができていない。両方ともそれぞれ、ラディカルな問い直しができていないということに問題があると思われます。これはなかなか重い。われわれとして問題提起を行いたいと思います。 さて、前回につづいて、繰り返しになりますが、お知らせです。Facebookの中にひつじ書房のページを作りました。 ---------- 執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。 「本の出し方」・「学術書の刊行の仕方」・「研究書」・スタッフ募集について・日誌の目次・番外編 ホットケーキ巡礼の旅 日誌の目次へ
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