仕事から少し離れて
2021年6月15日(火)

仕事から少し離れて

(6月9日にメール通信で配信した内容がもとになっています。)

5月のおしまいに小旅行といいますか、数日、仕事を離れてきました。仕事から離れて、リゾートでぼんやりだとよかったのですが、比較的近所の病院に入院して手術を受けてきました。手術は無事にすみまして、つつがなく仕事を再開しています。内視鏡による手術で身体的な負担はかなり少なくてすんだと思います。ただ、まだ、抜糸にいたりませんので、手術したところがくっつきますまでは、疲労は避けないといけないので残業などせず、夕方には帰って、早く寝るようにしています。入院していましたのは、手術の前日を含めて5日で、木曜日に手術して日曜日には退院して出てきました。

手術の後はすることもないので、持って行っていた本を読んで過ごしていました。加藤典洋氏の『テクストから遠く離れて』の単行本を持って行きました。全部読むところまでは行かなかったのですが、興味深い本でした。今頃読むのかと言われるかも知れません。比較的よく読まれている書籍ですので、内容を紹介するまでもないと思います。とはいえ、簡単に言うと現代思想の大きな流れであるポストモダン思想が作者を殺したことについての批判です。作者をテキストの中ではなく、外部のものとして、ポストモダンの思想は作者を消去したわけですが、それの捉え返しを提案します。その際に、言語学者ソシュールのラングの考え方を批判的に取り扱います。シニフィエとシニフィアンの関係を固定的に扱うことを批判します。そこでは、ラングと対立するパロールの言語学を持ち上げようと呼びかけているようにも読めます。誰に? あるいは、ラングの言語学を変えようとしているというようにも読めます。このあたりの議論は面白いです。とともに、加藤氏の述べたことは、現代思想業界さらには文学批評業界、さらには文学研究の世界ではどのように受け止められているのでしょうか。そんなに広く好意的に、そうだそうだと受け止められているようにも思えないのですが、どうでしょうか。こういう疑問はいまさらと言われてしまうでしょうか。ソシュールと対抗するかたちで吉本隆明の言語観の再評価のようなことも言っているように思いますが、もしそうだとするとその言語観は、時枝誠記の考えに寄るところがあるわけで、言語研究の世界ではどう受け止められるのでしょうか。

ここからは加藤氏の考えを離れた私の連想ですが、共同注意など、時枝的と言ってもいいような研究も認知言語学では重要になってきています。その視点で時枝文法の再評価というのはあるのか。シニフィエとシニフィアンの関係を固定的に扱うこと、恣意的であっても、ソシュールの図を見ると2つは一枚の煎餅の裏表のように固定的に張り付いているように見えます。加藤氏は作家というものを殺してしまったことへの批判によって、その固定的な関係を疑うのですが、現代的な言語学は、そんなに簡単に張り付いているということを想定していないのではないでしょうか。ただ、そのことをあまり明示的には話されていないように思います。

それは私の的外れな思い込みなのでしょうか。そのことを明示的に議論していないのではないか、現代の言語学はラングの言語学をどのようにかして、乗り越える必要があって、乗り越えてきたのではないでしょうか。それがポストラングなのか、パロールの言語学なのか、ディスコースの言語学なのかはどうなのか、言語学者の方々にきいてみたいと思います。

回復に向かっていますが、術後のせんもう的な中で考えたことですので、優しい気持ちでお聞き下さい。

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