松浦年男
ウェブやテレビなどで「最近の子供の名前は意味より響きを重視する傾向にある」とか「なんか優しい感じの響き」といった言葉を聞くことがあります。そういった音の響きと意味の関係というのはあまり正面から音声学者が扱うことは少なかったように思います。ただ数年前からオノマトペに関する研究が盛んに行われるようになり,音と意味の関係について研究の話を聞く機会が増えたように思います。音と意味の間は恣意的な関係で,ほぼ無関係(音象徴は例外的)と見なされることが多かったように思います。それに対して本書は音と意味の間には強い関係が様々な側面で見られることを身近にある素朴な素材や疑問からスタートし,様々な実験データを用いて解説しています。もちろん音と意味の関係が恣意的である場面は多いのですが,無視していいほど弱い関係でもないということが全体を通して分かるのではないかと思います。また,それらが心理実験や大量のデータに基づいて仮説を検証するという科学的手続きに則って導かれています。
さて今,本書の解説を「分かりやすく」と書きましたが,本書が一般的な啓蒙書と大きく異なるのは具体的なデータ,英語の原文,統計,圧力変化などの数学や物理的要素についても丁寧に説明されているところでしょう。音声学の勉強といったとき,様々な音声がどのように発音されるかという調音的要素を重視して学ぶことが多い(多かった?)ように思いますが,音声学にはどう聞こえるかという聴覚的要素や,それらを繋ぐ音響学的要素もあります。聴覚的要素の理解には人間の知覚が対数に変換されていることは基本となりますし,音響的要素の理解にとって音波の性質や基礎となる三角関数の理解は重要となります。本書ではそれらについても丁寧に数式の展開を解説したり,図表を多く用いて視覚的な理解を促したりしています。また,参考文献と練習問題,サポートページが非常に充実しており,さらなる高みへ行くことも十分に可能です。
以下余談です。私の場合,音声学の授業として受けてきたのは,上に書いたような調音音声学のトレーニング(IPAを発音できるようにする,聞いた音声をIPAで書き取れるようにする)だけでした。当時はPCでの録音など手軽にはできませんでしたし,記述言語学のためのトレーニングとして週1コマでやることとしては悪くもなかったかと思います(一方で音声の構造を理解する上でベストだったかと言われるとやや疑問も)。ただ,2002年頃から音声学を言語聴覚士の養成校で教えるようになり,そこでは調音音声学のトレーニングよりも調音器官の構造や,日本語の標準的な音声と典型的な音声障害,音響音声学的測定や聴覚音声学についての理解がより重要になってきました。また,それは自分の研究の好みや必要性としても強くつながり,ほぼ独学で学んでいくことになりました。幸いにして『音声の音響分析』(荒井隆行・菅原勉監訳)や『音声知覚の基礎』(今富摂子・荒井隆行・菅原勉監訳)などの読みやすい訳書が出て,同時に本書でも紹介されているPraatなどのソフトウェアも充実してきたのでどうにか学ぶことはできたし,教えてもいたのですが(ちなみに2008年度の授業ノートや,2010年に行った集中講義の資料(その1)(その2)(その3)なんかもまだ公開していますが,お恥ずかしい限りです),当時に本書のような第一歩としてだけでなく,深みも見せてくれるような本があればどれだけ助かったでしょうか。そんなことを考えながら読んでいきました。
松浦年男のresearchmap<2018/02/14>より転載
松浦年男(まつうら としお)
1977 年東京都墨田区に生まれる。大東文化大学外国語学部日本語学科を卒業後、九州大学大学院人文科学府(言語学専修)に進学。博士(文学)。北星学園大学文学部大学教授。『長崎方言からみた語音調の構造』(2014)で、第42回金田一賞受賞。