書評 酒井順一郎著『日本語を学ぶ中国八路軍』

日本語教育と戦場の日中文化交流を問い直す

田中寛(大東文化大学)

1960年代の末期、未だ日本語教育なる世界がどのようなものかも分からなかった高校生の当時、評者は受験勉強の手を休め、海を渡って来る短波放送の日本語にしばし耳を傾けるのを楽しみとした。中国から届けられる北京放送である。隣国で展開されている文化大革命という激動の実相を知りたい一心と同時に、その流麗な日本語に感嘆したものであった。評者のこうした体験はのちに日本語教育史、とりわけ戦時下の中国における日本語教育に関心を寄せるようになった、いわば原体験といってよいものだが、その後も上田廣、伊藤桂一といった従軍作家や戦史文学作家の作品を読みながら、そこに登場する中国人の日本語に関心を持ち続けることになる。

冒頭から私事にまつわる話を持ち出したのは、日本語教育史研究に携わる研究者の動機ないしきっかけには様々な自分史があって、それはその後の研究に小さくない影を落とす事実、さらに外国語習得にもその国の歴史的運命が介在することを想起したいがためであった。一口に日本語教育史研究と言ってもその範囲、射程は広範囲、かつ多岐にわたる。地域空間性、時代性もさることながら、そこに関与した教師の群像、教授法、使用された教材教科書の開発とその特徴、学習者、民衆との関わりなど、その関心は多種多彩である。本書は書名の表すように日中戦争下の中国八路軍が日本語をどのように習得して行ったか、教学の実態とその思想的、歴史的背景を明らかにしようとした、日本語教育史研究の中でもきわめて異色の成果である。

著者は長く中国の大学で教鞭を取られ、現在も中国の研究、教育者との学術交流を積極果敢に進めている異色の研究者である。即ち机上の日本語教育史研究者には見られない、足で資料を渉猟した研究を紡いできた。本書で使用された一級資料の存在についても多くの読者はきわめて新鮮な印象で受けとめたことは間違いない。評者も収録論文発表当時からもこれまでの日本語教育史研究になかった実証主義的な研究姿勢に大きな共鳴を受けたことを記憶している。本書は序章及び終章のほか六章から構成される。まず大東亜共栄圏下の帝国日本の言語政策における王道楽土、五族協和から東亞新秩序建設から大東亜共栄圏にまで拡張された結果、その性急な膨張と転換によって内在されていた様々な懸案が先送りされたことを検証する。次に中国にとっての日本語の受容の歴史的経緯について論証し、その延伸に八路軍の日本語重視戦略を位置付ける。敵軍工作訓練隊の設立と教学の実態、学生の選抜養成、日本語教育の学習内容と教育の留意点などを詳細に考察する。

とりわけ興味深いのは第六章の前線部隊での日本語教育と戦場の日中文化交流である。戦場にも日中文化交流があったとする著者の検証から日本語の反戦スローガンを国際的連帯として共有した特異な志向性が明らかにされる。中国八路軍は言語をまさに「工具」として認識し、実務的に活用する合理性を重んじた。これは敵性語を徹底して排斥しようとした日本と対極的な思想であった。かつて清末洋務運動の基本思想であった「中体西用論」の思想は、極めて具体的手段として「中体日用」の実践思想として定位した。西洋文明導入を合理化するために中華の伝統文明=思考様式を根本とし、日本を含めた外来文明を実用とすることで富国強兵策を強化したことは承知の事実であるが、この原理が軍事技術から行政・教育思想に至るまで、ひいては現代においても広範に影響を及ぼしたこともあらためて想起せざるを得ない。

 戦史文学や中国で頻繁に放映される抗日ドラマなどにも日本語を巧みに操る八路軍兵士や便衣隊が登場する。高橋和巳の長篇『邪宗門』の第二部第十一章「捕虜」には本書第六章の実態を裏付ける場面:捕虜となった日本人将兵が日本軍に投降をよびかける一幕が登場する。また本書でも紹介された延安日本労農学校の記録として前線の日本語通訳をも養成した『八路軍の日本兵たち』にもその実態の一端が示されているが、解放後も日本との国交樹立以前の、日本語を学び日本文物を摂取した経緯においても、こうした日本語との峻烈な格闘が存在した。陳信徳、宋文軍らの解放後の先達から薫陶を受けた周炎輝をはじめとする優れた日本語学者、そして現代に至るまで、日本語の習得、教学の背景、底流には本書に記述されたような歴史があったことを記憶に刻むべきであろう。

それにしても八路軍兵士は何と実利的な思想に依拠して日本語を「併呑」していったことか。その習得にも「中学(中学為体、西学為用)」の思想の強靭さが看取されるのである。中国では清末から開化政策の一環として、西方文化を受容するための手段として日本語学習が奨励され、多くの留学生が日本を目指した。著者は前著『清国人日本留学生の言語文化接触』において考察された歴史の延長として本書の考察に至ったのであるが、それはまた開放改革の時代における言語政策にも通底する。八路軍兵士の日本語「習得」は戦時下という特異な歴史の中で、実利的思想顕現の頂点ともいえる現象であった。

 本書からは中国人の外国語(日本語)習得に当たってきわめて現実主義的な実践へと止揚し、学習という「行為」を合理的に「行動化」する規範を持ち合わせていることに改めて気づかされる。そこには主観能動性が強くみられるのだが、その一方で対象を客体化しうる言語観ないし世界観に、評者も中国の研究・教育者との交流を通じて多くを学ぶ機会を享受してきたし、本書にもそれを確信する記述が随所にみられる。言語習得の実利主義ないし功利的思想は敵性の如何なしに「役に立つものは生かす」という普遍的思想に貫かれている。言語を習得する体験的幅を、ともすれば視野狭窄的にとらえがちな研究、教育者にとっては再考を促されるにちがいない。

 本書あとがきにも記されているように、評者は数年前に著者とともに戦時日本語教育史研究会を立ち上げ、数次にわたる研究会を開催し、この分野の研究の意義を発信してきたが、本書はその重要な成果の一つである。日本語教育史研究を動態的に把握する視角、方法論を切り拓いた貴重な成果である。ひろく江湖に推薦したい。(ひつじ書房 2020年3月刊) 

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