寒い季節がやっと過ぎたと思ったら途端に汗ばむ季節になってしまいましたが、いかがお過ごしでしょうか。五月病にも負けず、祝日のない日々も淡々と過ごしてゆく今日この頃です。今日は、いつものようにWebやデータに飛び込んで能動的にハントするのではなく、最近よく耳にするワードを取り上げて、少し考えてみたいと思います。お付き合い頂けましたらありがたいです。
あまり聞かない、言ったことがない
仮の姿が会社員のため、毎日電車に乗っては東京駅で乗り換え、そのたびに様々な人とすれ違い、たまに話す内容も聞き取れたりします。そんなある日ある時、若い女性が「リアルガチ」という言葉を普通に発話していました。このワードは個人的に「出所も意味も知っているけれど、通常使わない言葉」カテゴリに入っていて、まず自分では言わないので、ちょっとびっくりしたのでした。
始まりは誰かの私的言語
テレビ番組、特にバラエティをご覧になる方は、「リアルガチ」についてよくご存じのことでしょうが、そうではない方に少し説明をいたします。この言葉は、芸人の出川哲朗さんが使われたのが最初だと思います。この方は独特な言葉遣いをされるので、他にも独自のワードをお持ちですね。私としては、あくまで「一芸人さんの語彙」としてこのワードを認識しており、普通の人が使うものではないよなぁ、と長年思っておりました。でも、実際にこのように街中で聞こえてくるということは、一人の私的言語を超えて、社会的に認められたワードへ昇格したのだと考えられます。
調べたら、そのまんまのタイトルのテレビ番組も放送されていたようです。
「ガチ」自体は単独でよく使われます。「ガチンコ」の略だと思われますが、「本気の、マジの、冗談ではない」という意味合いですね。対して、これに「現実の」という意味を持つ英語「リアル」を付けてしまうと、「現実における本気」という、似た意味合いの言葉が重なってしまっています。重ねることで、意味を強める働きを持たせる意図があるのだと思います。意味を強めるために「ガチガチ」にならないのは、元の語が「ガチンコ」であるせいでしょうか。
ガチと現実、?と虚構
「ガチ」は現実や本当のことを指すようです。ということは、現実はガチガチしている、固いものなのでしょうか。確かに、現実世界の物質は固い物が多く、触っても自分では思い通りの形にできない物がほとんどです。自分が自由に振る舞えない、触ると固いのが現実世界、ということなのでしょうか。これは納得できるような気がしますね。「ガチ」は現実の触り心地といえそうです。
それでは、現実に相対する虚構を表すオノマトペはあるのでしょうか。ガチガチの反対だから、ふわふわ、とかになるのでしょうか。虚構は、そもそも触れるのでしょうか。オノマトペは虚構を表現しうるのでしょうか。ちょっとわからなくなってきました。
ヒトが感じることと、それを表す言葉
そもそもオノマトペは、ヒトが感覚で捉えられる物事を、その状況で発生する音に近いもので表現する言葉でした(音がしないものもありますが)。擬音語も擬態語も擬声語も擬情語も、元々は全てヒトが感じた何かを表現する言葉であり、裏返すと、ヒトが感覚で捉えられない物事をオノマトペで表現するのは、難しいのではないかと思うのです。
例えば「正義」とか「愛」とか「情報」といった概念そのものをオノマトペで表現することは、困難を極めます。どうしても比喩・類推(「正義→剣→シャキーン」のような)に頼って、ヒトの感覚側にたぐり寄せるしかないように思えます。
さて、話を虚構に戻しましょう。虚構はつくりごと・フィクションという意味を持ちます。虚構という言葉をオノマトペで表現することは難しいのですが、虚構・フィクションそのものにはオノマトペがふんだんに使われますね。作り物にリアリティを持たせるために、ヒトの感じる事柄を表すオノマトペを使って、作り物が決して持ちえない感覚入力の補助としているのだと考えられます。
もちろん、ヒトが感じる事柄はオノマトペだけではなく比喩表現などを使って様々に表すことができますので、言語表現におけるオノマトペの特性については、別途考える必要があるのだと思います。
近くにあるオノマトペ
オノマトペは、とても「身体の近いところ」にある言葉だと常々思っています。もし目に見えるのだとすれば、ヒトが生活し動き回っている、その半径1メートル以内で現れるものなのではないかなと思います。目に見えない物・遠くにある物は、想像するしかなく、それはそれでロマンがあるのですが、固い触り心地から「ガチ」という音を通してままならない現実を想う、そんな近すぎる言葉は、ヒトの感覚の限界を思い知らせるような働きをするようで、惹かれてやまないのです。