目からウロコの百人一首|第1回 連載を始めるにあたって―何が「目からウロコ」なのか?―|はんざわかんいち

 

 はじめまして。ちかんわはんざい、もとい、はんざわかんいち、です。今回ご縁があって、このウェブページで連載することになりました。いつまで続くか分かりませんが、どうぞよろしくお願いします。

 百人一首は広く知られているものですから、全部とは言わなくても、その歌を諳んじることのできる方も多いことでしょう。しかし、それぞれの歌の解釈となると、どうでしょうか。案外、ただ覚えているだけという場合が多そうにも思われます。

 そのせいか、百人一首に関する本やウェブサイトがたくさん見られます。それらの解釈を見れば、とりあえず理解できたという気になれるかもしれませんが、じつは、ちょっとおかしいのではないかと思われるものも結構あるのです。

 歌の解釈の基本は、あくまでもそれを形作っている表現そのものにもとづくところにあります。その表現は、57577という限られた範囲における、さまざまな言葉の組み合わせから成ります。そして、それらの言葉には、歌の歴史が刻み込まれています。歌の解釈は、用いられている言葉に込められた、歴史的なお約束をどのように読み取り、結び付けるかにかかっています。

 百人一首は、万葉歌以来の古典和歌のアンソロジーです。そのすべての歌が古今集以降の勅撰和歌集に載っているものですから、歌としての出来はどれも折り紙付きということです。しかし、1万首以上にも及ぶ勅撰集歌からたったの100首を、藤原定家はいったいどのようにして選んだのでしょうか。そこには、当然、定家の和歌観、美意識、嗜好などの基準があってのことでしょう。

 定家も撰者の一人だった新古今集の歌は、和歌史のうえでの最高到達点と評価されています。百人一首はそれをふまえて、選ばれたものです。ということは、その段階、その時点での評価基準によって、定家が新たに100首を選び出したということになります。しかも、1人の歌人につき1首だけという条件付きなのですから、さぞ大変な作業だったことでしょう。定家自身や父親の俊成でさえ、1首ずつしか入っていません。

 では、その評価基準とは、いったいどんなものか。基盤にあるのは、歌が言葉だけによる自立した世界を描いたものという考え方です。この考え方によれば、たとえば、どういう人が、どういう状況で、実際に何を見聞きして詠んだ歌かという事実関係は、必ずしも重要ではありません。重要なのは、結果として歌を形作る表現がどのような世界をリアルにイメージ(想像)させるかです。

 その点から言えば、歌の解釈にとって「ウロコ」つまり妨げとなるのは、歌そのもの以外の要素や、歌あるいは言葉にまつわる常識的な思い込みです。それらが目から落ちたときに見えてくるのは、歌それぞれに用いられた言葉の組み合わせから浮かびあがるイメージ世界のありようです。

 この連載では、百人一首の歌を何首かをピックアップして、その解釈の「ウロコ」となっていると思われる言葉・表現を3つ程度にしぼって、それがなぜ、どのように「ウロコ」なのか、解説していきます。そこから導き出される歌の解釈は、これまでとは、少し、あるいは、かなり異なったものになるでしょう。それが得心できるかどうかは、読者の皆さんしだいですが、できるだけ「目からウロコ」体験が楽しめる読み物になるよう心がけます。

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